やわらかな遺伝子/マット・リドレー(あるいは「『ウェブ進化論』で語られなかった大切なこと」)

愛だとか、惚れるだとかいう言葉を使えば、ロマンチックな響きにもなるが、その活性をうながすオキシトシンという遺伝的物質は、そもそもはしょせん排尿を調整するホルモンなのだとしたらどう感じるでしょうか?

これに気づいた研究者たちは、ラットの脳にオキシトシンとバソプレシンを注射したときの影響を確かめた。すると不思議なことに、オキシトシンを大脳に注射した雄のラットは、すぐにあくびをしだし、同時にペニスを勃起させた。投与量が少ないうちは、性欲も高まり、射精が早く頻繁になった。一方、雌のラットの大脳にオキシトシンを注射すると、交尾の姿勢をとるようになった。ヒトの場合、マスターベションをすると、男女ともにオキシトシンの濃度が上がる。
マット・リドレー『やわらかな遺伝子』

この研究とは別に1980年代後半、トム・インゼルらによって、「齧歯類が性的パートナーに長いこと愛着を感じていられるかどうかは、ある種の受容体遺伝子の前でスイッチの役目を果たしているプロモーターに入っているDNA断片の長さに左右されている」ということを発見している。
つまり、それが愛の基盤なのだ。

Nature via Nurture

マット・リドレーの『やわらかな遺伝子』は、"Nature via Nurture"(生まれは育ちを通して)といい、長い間、人間を対象とする遺伝学や心理学などの学問の分野で論争の種となってきた"Nature vs Nurture"(生まれか育ちか)が、結局、どちらも重要で、どちらが欠けてもうまくいかないことを、最新の研究の成果をていねいに集め、紐解きながら、ていねいに説明してくれる1冊です。
邦題の『やわらかな遺伝子』は、遺伝子が環境のうながす変化に柔軟に対応する性質をもっていて、環境に応じて遺伝子が様々な機能のオン/オフのスイッチを入れる様をよく示してくれています。

生まれか育ちかの論争は、いずれも決定論的な思考によって人間を含めた生物が成り立っている仕組みって何によって決定されてるんだっけ?という疑問に対し、一方ではそれはDNAを中心にした遺伝的な仕組みで成り立っていると主張し、他方は、いや、努力や勉学を含めた環境によって成り立つのだと主張することで、相手のあら捜しをして非難しあっているわけです。だって、愛が排尿と遺伝的に関係しているのだなんて主張された普通、いやでしょ? たとえ、それが真実を含むものだとしても。

それに対して、マット・リドレーは、なんでどっちか1つに決める必要があるの? そんなの両方が関係しているに決まってんじゃんという論旨を、さまざまな科学的な研究結果を非常にていねいに取材して得た材料をものの見事に調理して見せることで、嫌味のない言い方で「生まれは育ちを通して」ですよねという論旨として語ってくれています。

本書の内容

本の内容を目次から見てみると、こんな感じなっています。

  • 第1章 動物たちの鑑
  • 第2章 幾多の本能
  • 第3章 語呂のいい便利な言葉
  • 第4章 狂気と原因
  • 第5章 第四の次元の遺伝子
  • 第6章 形成期
  • 第7章 学習
  • 第8章 文化の難題
  • 第9章 「遺伝子」の7つの意味
  • 第10章 逆説的な教訓


第1章では、ダーウィンの進化論を、第2章ではウィリアム・ジェームズの生得論を、そして、第3章では、"Nature vs Nurture"という語呂のいい言葉を生み出して生まれ育ち論争に火をつけたフランシス・ゴールトンの双子研究による優生学をという形で生まれの側の主張を主に論じたあと、第4章ではジグムント・フロイトにはじまる精神医学を、第5章ではジャン・ピアジェの児童心理学を取り上げることで、育ちの側からの反論を紹介しています。

ここまでを前半部分として、第6章以降の形成期~学習~文化~そもそも遺伝子の定義ってにつながる4つの章では、生まれでも育ちでもなく、両方がからみあってこそですよねという論旨がうまく紹介されています。
例としてあげられるのは、第6章でのコンラート・ローレンツの「ガンのひながはじめて見たものを親だと理解する」という刷り込みの話や、第7章でのスーザン・ミネカによる「サルはヘビへの恐怖は学習するが、ほかの対象への恐怖はなかなか学習しない」という実験による学習可能なものにもある程度本能が関係しているという例などをあげています。

延長された表現形

「延長された表現形」はリチャード・ドーキンスがビーバーがつくるダムやヒトの言語能力など、生物の体の外にも遺伝の影響をみるために編み出した言葉で、それについて論じられた本のタイトルだったりもしますが、この『やわらかな遺伝子』の「第8章 文化の難題」で論じられているのも同じ問題を、"Nature via Nurture"(生まれは育ちを通して)という視点で論じたものです。

進化論という言葉の響きには、どうしても低いレベルから高いレベルに向かって変化をしながら何か明確なゴールに向かうイメージがつきまといますが、この本の第1章でダーウィンについて紹介されている箇所でも論じられているとおり、ダーウィン本人は進化に進歩的なイメージはいっさい抱いておらず、むしろ、進化論の着想をティエラ・デル・フエゴ島で出会った狩猟採集型の島民の「動物ほとんど変わらない」習慣から得ているわけです。つまり、進化論はゴールに向かう進歩ではいっさいなく、環境に応じた変化にすぎないわけです。

文化という言葉には、少なくともふたつの意味がある。ひとつは高尚な芸術や洞察や趣味の意味で、ひと言で代表させるならばオペラだ。もうひとつは儀式や伝統や民族性の意味で、いわば、鼻に骨を刺して焚き火のまわりで踊ることだ。このふたつは、深いところでつながっている。黒の蝶ネクタイをして客席に座り、『椿姫』を鑑賞するのは、鼻に骨を刺して焚き火のまわりでする踊りの西洋版にすぎない。
マット・リドレー『やわらかな遺伝子』

上の引用に表現されているように、同じことを文化の面でも論じているのが、この第8章です。つまり、文化もまたその環境に応じた表現形であり、そして、それは環境によってスイッチを入れられるものであると同時に、スイッチそのものが存在したり、スイッチが入っても良い準備がその時点で整っているかという問題でもあるわけです。

ようするに、ある環境を前にしても、類似猿はヒトに進化しても、齧歯類は決してヒトに変化しなかったのもスイッチの問題とみることができます。ここでもやっぱり「準備が大切ですね」ということです。そして、同時にどの準備が大切になるかどうかはそのときの環境がないとわからないのだから「未来を考えるならいまの気分だけで無用とか無意味とかを判断しないこと」も重要だよねといえるわけです。

日産のSHIFT_という表現形

例えば、最近、日産が自社サイト上で「ユーザーボイス」や「他メーカー比較」といったきわめて開かれたWeb2.0的な試みを展開してるのを知りました。

 

これもTIIDAブログなどであらかじめWeb上での準備を行なっていたし、そもそも組織的にも革新を追及していた日産だからこそ、この段階でそれが表現できているわけなんだろうなすごく思いました。
もし、これがトヨタにできるかといったら、やっぱり準備をしていたかどうかという意味で不可能だろうとも思ったりしました。日産はSHIFT_できても、トヨタにはそれができないというわけですね(その遺伝子がない、もしくは、スイッチが入ってないから)。

これも同じように進化的な表現形の問題であり、"Nature via Nurture"(生まれは育ちを通して)という意味での表現形の問題なんだろうなと感じます。

『ウェブ進化論』で語られなかった大切なこと

先日『Web担当者 現場のノウハウ Vol.03』の特集「『ウェブ進化論』で語られなかった大切なこと」の中で、「『ウェブ進化論』で重要なのは、ウェブではなく進化論のほう」で、「市場環境の変化で生まれた「あちら側」にどう自分たちのニッチ(生態的地位)を確立するか? それが個々の企業の課題でしょう」ということを書かせていただいたんですが、それもまさにこの日産の場合と同じことなんです。Web2.0とかいってみても、それ以前にその企業が、ブランドが、どんなアイデンティティを表現するために自身のどんな遺伝子を活用してそれを具体的な表現形にするかをWebのレベルではなく、企業としてのレベルで準備ができていなければどうにもならないんだと思うんです。日産がWebでSHIFT_を表現できたのはあくまで先に企業体としてのSHIFT_が表現できるスイッチが入っていたからで、その逆では決してありえない。「事業会社にとってのWeb2.0:その2.Web構築・運用は企業経営の縮図」でも、そのあたりについては触れましたが、Web2.0だけで騒ぐのはまさに育ちがすべてだと言ってる環境論者と同じで、物事を一方的にしか見られていないんだと思う。そこにやっぱり「『ウェブ進化論』で語られなかった大切なこと」があると思っています。

話は『わやらかな遺伝子』から逸れた感がありますが、僕がこんな見方ができるようになったのも、やっぱりこの本を読んだおかげです。読み終わってからこの紹介を書くのにずいぶん時間が空いてしまったのですが、それでも紹介したいなと思ったのは、この本がすごく「キャパシティを広げる」意味で役に立ったからです。
なので、皆さんもぜひ読んでみて下さい。

 

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