現代語訳 般若心経/玄侑宗久

いやー、般若心経がこんなに自分にしっくりくるとは思いませんでした。
ここ最近、人の認知や意識、思考などに関する本を読み、ブランドだとか、マーケティングだとかを考えていたわけですが、要素に還元しない、複雑系~自己組織化的な知を考察するにはいったいどうすればいいんだろうと正直迷ってました。

でも、うちの社長に紹介されて読んだ、この玄侑宗久さんの『現代語訳 般若心経』。ブランドの構造的なモジュール化だけでは決してしっくりこなかったブランドや認知というものに関する迷いを結構すんなりと払いのけてくれました。

般若心経って

ところで般若心経の般若ってなんなんでしょう?

いかにソクラテスがデルフォイの神託どおり賢明であり、その弁明が優れていたとしても、理知的な分析知は必ずや「全体性」を分断する方向にはたらく。「全体性」とは、体験的に観ずるものであって分析するものではないのである。
世尊が提出したのは、理知によらないもう1つの体験的な「知」の様式である。そして世尊はそれを「般若」と呼んだ。
玄侑宗久『現代語訳 般若心経』

ここでいう世尊はお釈迦様、仏陀のことです。般若はソクラテスに代表されるような西洋的な分析的な知とは異なる、座禅や瞑想などの行を通じて体験的に得られる知を指すそうです。般若のお面とかの般若とはまるっきり関係ないそうです。

で、般若心経はといえば、世尊の弟子だった舎利子(シャーリプトラ)さんが「もし立派な若者が、般若波羅蜜多を実践したいというなら、どのように学べばいいと答えてあげればいいでしょう」と訊いたのに対して、深い禅定にはいっていた世尊のかわりに、観自在菩薩が答えてあげたという話を描いたものなんだそうです。
ここでいう「般若波羅蜜多」とは「般若」は先の意味の知恵で、「波羅蜜多」は理想郷をあらわし、「プラジュニャー・パータミター」の音写である「般若波羅蜜多」は全体で、般若によって理想郷に渡ることと解釈されているそうです。

照見五蘊皆空

みなさんも一度くらいは聞いたことがあると思いますので、般若心経がこんな言葉ではじまるのは知っているかと思います。

 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

いちお、この『現代語訳 般若心経』という本は、そのタイトルどおり、般若心経を現代的に翻訳したものということになっていますので、ここでその訳の一部を見てみましょう。

シャーリプトラさん、じつは私、その般若波羅蜜多のための実践をしてるときに、五蘊は皆「空」なんだって、わかっちゃったんですよ。
玄侑宗久『現代語訳 般若心経』

すべてこんな感じの訳になっています。どうでしょう? すごくわかりやすいでしょ?

では、ここで出てきた五蘊って何なんでしょう。
それは僕たちの心身を構成する5つの集まり、色、受、想、行、識を意味しています。
観自在菩薩さんはこの五蘊がみんな「空」だってわかっちゃったと言ってるんです。「空」とは無のことなんですけど、単に何にも無いということではなくて、科学の分野でも真空の空間も何もないわけではなく、真空というのも物質が固体や液体、気体といった風に相転移によって異なる相をみせるのとまったく同じ意味で1つの相であることがわかってきているように、「空」もまた因果や縁起などによる無限の関係性のなかで絶えず変化しながら現象を発生させる全体的な場としてとらえられています。

その意味で、色=物質的現象、受=感覚、想=表象、行=意思、識=それらの総体、統合体(あるいは錯覚としての「私」)の五蘊もまた「空」なのだと観自在菩薩さんは言ってるわけです。
というわけで、有名な、

 色即是空 空即是色

となるわけです。

で、何がブランドと関係するの?

で、なんでこんな般若心経の話がブランドとつながるかっていうと、皆さん、覚えているでしょうか? 前に「パースの記号学とホフマイヤーの生命記号論とブランドの関連性」で紹介したDubberly Design Officeの「A Model of Brand」というブランド・コンセプトマップとプラグマティズムの祖であるチャールズ・S・パースの記号学における三項論理の深いつながりを。

パースの記号学における三項論理は、次の3要素からなるんですね。

  • 記号あるいは表意体(sign)
  • 対象(object)
  • 解釈項(interpretant)

これって色、受、想、行、識の五蘊のうちの、色と受と想の関係に近いなと感じます。どれがどれと対応するという明確な相関はないわけですが、対象があり、それを表意体を介して感じ取り、さらに表意体が対象であると解釈するわけです。さらにA Model of Brandでは、その解釈項=認知を通じて、ブランドができあがるわけですが、それが意志としての行を通じて、総体としての識=ブランドがあたかも存在するように感じさせると見ることができるんではないかと思うわけです。

そして、何よりそれは「空」であると。「空」は先ほども書いたように、因果や縁起などによる無限の関係性のなかで絶えず変化しながら現象を発生させる全体的な場です。単にブランドは実在しないというよりも、そうした無数の関係性の中に現象として浮かび上がってくるわけです。実体が何かを問おうとするからブランドはわかりにくくなるわけです。

そんな風にブランドというものや、人の認知というものを考える上でも、この『現代語訳 般若心経』はおもしろかったです。
でも、それ以上に、般若心経ってそういう話だったんだということがわかったのが何よりも新鮮でした。現代語訳の中にはなぜか量子力学のニールス・ボーアやハイゼンベルクなども登場するので、そういう意味でも楽しめると思います。

興味のある方はぜひ。

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