好奇心を活性化するための受容器官の鍛錬

すげー感覚的なことを言いますが、昨日の「未来を考えるならいまの気分だけで無用とか無意味とかを判断しないこと(あるいは多和田葉子『ふたくちおとこ』)」や「キャパシティを広げる」で考えている、自分の現在のキャパシティの範囲外のものを無用、無意味と判断して、自分の範囲内のものしか学ぼうとしない姿勢をもってる人は、実は学ぶ力が弱いんじゃなくて、むしろ、脳みそ的な学ぶ力ばかりが発達していて、感じることに関する能力が弱いんじゃないかと思いました。

感じる能力の低さ

ようするに、そういう自分のキャパの範囲外を学ぶ姿勢が弱い人ほど、頭でっかちで、頭でだけ考えてる人なんじゃないかと。逆に言えば、感覚とか感情とかが弱いのかなって。そんな気がします。
自分のいまのキャパシティの範囲外のことを学ぶには好奇心みたいな、頭で考えて生み出せるのとは別の力がいると思うんです。そういう好奇心って、いくら勉強(机に座ってするような狭義の勉強)とか、本から何かを知識を得ようとしたところで養えないと思います。むしろ、それは普段の生活とか、あるいは、その反対の非日常的な体験(見知らぬ土地への旅行だとか、寺社などでの神秘的な体験だとか)の中で、頭でわかるんじゃなく、なんとなく感じるものがあって、そこで養われるんだろうなと思うんです。

ペンローズの三角形、再び

それこそ、昨日の「ペンローズの<量子脳>理論―心と意識の科学的基礎をもとめて/ロジャー・ペンローズ、茂木健一郎、竹内薫」でも紹介した、下のペンローズの三角形、



にあるような、精神世界からプラトン的世界を感じる、そこから数学的真理を発見するなんていう芸当は、普通の知力、学ぶ力では不可能でしょう。逆に言えば、普通の知力や学ぶ力が行なってるのは、単に精神的世界と物質的世界の相互の関係性だけに頼っていて、プラトン的世界を見ていないんではないか、と。

東洋的な学習方法

だとすると、自分のキャパシティを広げられない人に、必要なのはむしろ座禅とかなんじゃないか、と。西洋的な学問の仕方じゃなくて、東洋的な学問をやってみることで、脳みそ以外の感覚器を刺激して、外部の未加工の非人工的な知識を受容しやすいよう、鍛えることが必要なんじゃないかと考えました。

そういう受容力が体にしみこんでいないと、たぶん、ブログとか読んでもほとんど身につくものはないんじゃないか、と。
情報がいくらカンタンに手に入るようになったからといって、受容器官のほうが低レベルなら「学力」なんて向上しないんだろうなという気がします

いやー、我ながら思い切って非科学的で、感覚的なことを書いてみましたが、たぶん、これ合ってるよ。

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