キャパシティを広げる

未来を考えるならいまの気分だけで無用とか無意味とかを判断しないこと(あるいは多和田葉子『ふたくちおとこ』)」や「色即是空。諸行無常。便利なハウツーもいつ塵となって消え行くかわからない」のエントリーで言及したのと、まさに同じようなことを書いていらっしゃるブログを見つけましたので、遅ればせながら引用させていただきます。

まぁ高校までの勉強って言うのはキャパシティを広げるためのものだからやってて無駄になることはまずないんだけど。だって目的はキャパシティを広げることだから。キャパシティが広ければ広いほど、未知のものを受け入れる事が容易になる。今やってることそのものが役に立つわけではなく、自分の能力の器の大きさが役に立つ。そしてキャパシティは若ければ若いほど広げることができる。年をとってからでも広げることはできるけど、若い頃のほうが広がるスピードが速い。

「高校までの勉強って言うのはキャパシティを広げるためのもの」という理解はなるほどと思いました。キャパシティは「若い頃のほうが広がるスピードが速い」というのも納得です。でも、逆にいえば、自分のキャパシティを広げることに切実な危機感を持ちやすいのは大人のほうかなとも思うので、全体的にはどっこいどっこいなのかもしれませんね。

でも、問題はこういう自分のキャパシティを広げるってことに、say_soさんは学生に対して問題を感じ、僕のほうは大人(特にビジネスマン)に同じように問題を感じているってことじゃないでしょうか? それって主な人、全部じゃんってことです。
世の中、そんなに自分のキャパシティを広げる努力を怠っている人ばっかりで、それは学生の時代から就職をして、それなりに仕事の上での経験を積みながら、なお、そういう状態でいることに平気だというんでしょうか? そうだとすると、ちょっとおそろしくなりますね。

「キャパシティを広げる」は、言い換えれば、「自分の引き出しを増やす」ということにもなるでしょうか? say_soさんも「意味がないことをやって何が悪いんだろうか。そもそも意味があるって何さ?」と書いてますが、将来何が役に立つかはわからないし、わかっていたら実はそれはあんまり役に立たないということもあったりするわけです。さっきも書きましたが、「現時点での浅薄な自身の知識や情報をベースにして、無用だとか無意味だとかを判断して、何を学ぶか、何をやるかを極端に絞り込んでしまうのって、理知的に見えて、逆に危うい」と思うんです。

それなのに、自分のキャパシティを広げることにあまりにも無関心なこの状態っていったい何なんでしょうね? 忙しくて、それどころじゃないということでしょうか? でも、それは「足りないのは時間ではなくて、ものを考える意欲や習慣なんじゃないですか?」っていうところに再び行き着いてしまうのではないでしょうか。

子は親の鏡ということなのか? あるいは、子供の頃からの修練の足りなさが大人になっても受け継がれているということなのか?

とにかく、なんなんでしょうねって思います。

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