未来を考えるならいまの気分だけで無用とか無意味とかを判断しないこと(あるいは多和田葉子『ふたくちおとこ』)

多和田葉子さんの中篇小説『ふたくちおとこ』に登場する、口と肛門のふたつの口で話すティルは、本当は名前がなく、みんなのなって欲しいものになる。観光客の前では「オンガク」や「ワイン」と名乗り、手伝いを必要としているパン職人の前ではパン職人と名乗ります。また、鍛冶屋の親方から「おまえのせいで経費にマイナスが出た」と言われれば「わたくしの名前はマイナスであります」と切り返します。

多和田葉子『ふたくちおとこ』

町から町へと渡り歩いたティルは「ニーダーザクセン中世の旅」に参加する日本人ツアー客の一向にまぎれこみます。ティルの言葉の上でなっただけの言葉は、ツアー客の一行に混乱の種を蒔き、日本人ガイドはティルの言葉を通訳しようとして、まったく別のことをしゃべってしまう。その通訳の内容を聞いて、観光客はまた勝手な方向へ話をつむいでいく。旅行客の一人、いのんどだけが、ティルの様子を見て気に入ると、「そいつ、おれ。おれ、それ。いつか、あいつだった、そいつ、今、おれ」と自分に同化させる。

何にでもまわりが求めるものになってみせるティルは実は混乱を生むだけの役立たずで、そのティルに自分を同化させようとするいのんどは、役立たずで無用な子供ティルに共感を抱きつつ、旅行仲間の薬局「迷迭香」の女主人と恋仲に囚われた大人の男。

無用で無意味なおとこたちと、役に立ち意味のあることしかしない男たち

この小説を執筆直後のインタビューで多和田さんが「無用で無意味なおとこたちの話を書きたかった」という旨のことを話していたのを読んだことがあります。いま(1998年当時!)は役に立ち、意味のあることをする男たちばかりだから、とその理由を述べていたのを覚えています。

最近になって、そのことをよく思い出すようになりました。
目の前の仕事と将来のための仕事のバランス」だとか「準備が大切ですね」とかで書いたことに通じる話です。
将来のための仕事とか、準備だとかは、実は現時点では無意味だったり、無用だったりすることも多いと思います。まわりから見たら、なんでこのクソ忙しいときに、あいつはあんなことやってるんだと白い目で見られるようなこともなくはないでしょう。かくいう僕もこの数日間、目の前の仕事に忙殺されつつ、玄侑宗久さんの『般若心経』を読んだりしていました(これについてはあとで書きます)。

将来何が役に立つかはわからない、わかっていたらそれは役に立たない

結局、何があとでの準備につながるのか、将来のビジネスにつながるのかなんて正確にはわかりません。必ず成功するなんてわかっていることは、他のみんなもそう考えるだろうから競争は必死で、成功するのは大変で、それには事前の準備などとは異なる別の要素が成功には必要になるでしょう。
これから何が成功しそうか教えてくれなんて言ってくる人はなにかそのへんで大きな勘違いをしてるんだと思います。まわりがSNSやブログで成功したからといって、それでうまくいくかといえば、みんなが使っていて競争が激しい分、成功は大変なのは考えてみればわかるはずです。

すこし話がズレましたが、結局、事前の準備とか将来のための仕事だとかって、ある意味では賭けで、無用で無意味な感じがすることでもやってみようと思う好奇心みたいなものがないとダメだと感じたわけです。

未来を考えるならいまの気分だけで無用とか無意味とかを判断しないこと

と、そんな意味で、本当に未来を考えるなら、いまの気分だけで無用とか無意味とかを判断しないことって重要だなと思うわけです。現時点での浅薄な自身の知識や情報をベースにして、無用だとか無意味だとかを判断して、何を学ぶか、何をやるかを極端に絞り込んでしまうのって、理知的に見えて、逆に危ういわけです。

他人のブログを読んだり、今まで読んだことのない人の本や読んだことのないジャンル、内容の本を読むことは、そういう自分勝手な要/不要の判断を無効化してくれる意味ですごく役に立つことだと思います。でも、はてブとかを見てると、逆にそういう自分の殻から出る機会を利用せずに、自分が現時点で関心があること、理解ができることだけに賛同して、それでなにか自分の身を守っているかのような擬似コミュニティを形成して悦にはいってしまっているのでは?と感じることもあります。

どんなに客観的に判断したつもりでも、元になる判断基準がきわめて私的なものにならざるをえないわけですから、それでいまは無用だとか無意味だとか決め付けて、自分の守備範囲以外のものに手を出さない姿勢をどうかと思うわけです。

色即是空、空即是色

「蘊」とは「集まり」のことです。たまたま縁起によって集まった体と精神機能の集合体が「私」であり、それは絶えず無数の関係性のなかで変化しつづけています。いわば「五蘊」としての「私」は、常に世界に開かれているのです。
玄侑宗久『現代語訳 般若心経』

色即是空。もののかたち(色)とはそれ自体が自性的に存在するのではなく、実は実体はなく、無数の変化する関係性(空)が生み出す幻影を「私」が感じているにすぎないというのが、般若心経に書かれていることです(自己組織化だとか量子力学とかが頭に浮かびますけど、それもまたあとで)。「五蘊」というのは、色、受、想、行、識からなる人間の心身を構成する5つの集まりのことですが、これまた認知科学的な分野とも共時性を感じますね。

とにかく僕は、無用だとか無意味だとか、役に立つとか自分はこれが専門だからこれをやるだとか、そういう括り=制限に自分自身をあてはめてしまい、小さくまとまろうとする姿勢はまずいんじゃないのかと思ったりします。これだけ変化の激しい世の中だったりもするわけですから、いま役に立つもの、いまニーズの大きいものが必ずしも将来的にもそうである可能性はきわめて小さいわけですから。

それよりも、まわりには自分が知らない役立つ情報、知識をもった人たちがいて、きっと誰もがそういう関係性の中に生きているわけだから、ちゃんと周囲の人の話に耳を傾けないといけないのではないかって思います。

それは「みんなのなって欲しいものになる」ふりをすることではなく、みんなの言葉のなかに凝り固まった「私」を捨て去るようなものなのかもしれませんね。
とにかく広い目で、好奇心旺盛に、まわりからいろんなものを吸収しようとする姿勢が大事なのじゃないかなと思います。
(いまいち、まとまりのないエントリーなので、あとはそれぞれ自分で考えてみてください)

 


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