私的インフォメーション・アーキテクチャ考:8.構造と要素間の関係性:文脈の生成

意外と長かった「構造と要素間の関係性」についての考察も今回で最後です。

奇妙な本

あなたの前に1冊の本があります。とても奇妙な本です。

あなたはその本を誰がそこに持ってきたのかわかりません。誰が何のために、そして、あなたに読ませるために、そこに置いたのかどうかも定かではありません。自分の目の前に置いてあるのだから、自分が読むために置かれているのだろうという気がしています。
それは一体いつからそこに置かれてたのでしょうか? ついさっきのことでしょうか? それとも、昨日からあった? いや、もっと前からでしょうか。ずっとその本はそこにあったのかもしれないし、あなたにはそれが何十年も前、いや、何百年、何千年も前のことのような感じさえしてきます。

その本にはタイトルも著者名も印刷されていません。出版社も発行者も記載なく、いつ書かれたものか、何について書かれたものかを示すヒントとなるような表記もなされていません。真っ白なカバーに、真っ白な扉。本文が日本語で書かれていることだけがあなたにわかっていることです。

おそりおそる本を読み始めたあなたは、それが何の本なのか、ますますわからなくなります。それは事実に基づく記載なのか、はたまた、フィクション、小説なのか。日記であるようにも見えるし、何がしかの日誌にも見えなくもない。いや、辞書や百科事典のようにさえ思えてきます。そこに書かれた物語(いや、物語と断言できるかどうか?)は、いったいどこの国のことを描いているのか、そして、いつの時代のことを描いているのか。
ただ、「男」という名で描かれるその人が、あなたには同じ一人の人間を指し示すものなのか、それとも、まったく異なる男たちが次々と登場してはまた別の男に入れ替わっているのか、あるいは、そもそも男一般を指し示しているのかもよくわかりません。それどころか、その「男」と記載された者が人間の男を指し示しているだけでなく、獣の雄を表現しているようにも、雌に食べられるカマキリの雄、植物の雄しべ、そして、Y染色体について書かれた記述のようにさえ思えます。

読み進めれば読み進めるほど、あなたにはそれが何の本なのかわからなくなります。いったい、どのくらい読んだのだろうか。ページ数も記載されていないし、部屋には時計がありません。真っ白な部屋には窓さえなく、家具もあなたが座っている椅子と目の前のテーブルだけ。記憶喪失のあなたにはなぜ自分がそこでその奇妙な本を読んでいるのかまるで見当がつかないのです。

文脈の生成

さて、こんなことが実際ありえるでしょうか? 自分の前に差し出された1冊の本がタイトルも著者の名前の記述もなく、事前にそれが何について書かれた本で、どんなジャンルを扱っているのかさえわからなかったら、上に書いたような状況に果たして陥ってしまうのでしょうか?

過程そのものがありえにくいことなので、実際の答えはわかりませんが、実際、僕たちが本を読み始める際には、事前に多くの情報を得ていることがわかります。本のタイトルや著者名はもちろん、自分で本屋に買いに行ったのなら、それがどんなジャンルの本で本屋のどんなカテゴリーに分類されていたかもわかるでしょうし、書評か何かを目にしていたのならどんなことについて書かれているのかなんとなく知っていたりもするでしょう。もしかしたら、あなたは前に同じ著者の本を読んでいるかもしれません。

私的インフォメーション・アーキテクチャ考:7.構造と要素間の関係性:量と頻度、外部参照性と反発性」では、最近のアメリカのテレビドラマが一見しただけでは何を意味するのかわからない反発性の高い情報が昔に比べて非常に多く含まれているのが特徴であるというスティーブ・ジョンソンの説を紹介しました。それはインターネットが実現する外部参照性やDVDなどによって繰り返し視聴できるということを前提とすることで、反発性の高さは単に難解さにつながるのではなく、そうした隠された秘密を視聴者に探させるという別の楽しみを与えているのだと見ることができます。

私たちが本を読む際にもこうした外部参照性に大きく頼っています。カテゴリー分類、タイトルや著者名、出版社、その他もろもろのメタデータという事前の情報が読む前には与えられています。それだけでなく小説はこういうもの、科学書はこういうもの、ビジネス書はこういうものといったフレームワークがなんとなく僕たちの頭の中には出来上がっているでしょう。本がまさに読まれるとき、それはまっさらな状態から読まれるのではなく、あらかじめ編み上げられた情報のネットワークと認知のフレームワークの上で読まれるのです。情報は単独に存在するのではなく、他の情報との関係性を規定された構造の中に存在し、IAとはそうした構造・関係性を利用者に対して可視化することで、利用者が情報を扱いやすくするためのものなのでしょう。

ペンローズの意味論(semantics)

では、意味とはもろもろの情報あるいは記号の諸関係、構造によってのみ生成するのでしょうか? ソシュールであれば、「意味とは差異である」という言い方で、そのすべてを構造のうちに帰したでしょう。
しかし、ソシュールとは別の記号学を興したパースや、最近、読んでいるペンローズの意味論を考えると、すべてを構造、つまり計算可能なものに帰することはできないというほうが納得できる気がします。

ようするにAIには人間的思考はできない、あるいは、チューリングテストに合格するチューリングマシーンは存在しない。

ペンローズが言っているのは、数学を数学たらしめているのは、その「意味」を把握する、私たちの意識の働きであるということなのである。数学から「意味」を捨象して、それを単なるシンボルの形式的操作の集合として捉えようとする形式主義のやり方は、そもそも、根本的なところで成り立たないと言っているわけである。
茂木健一郎『ペンローズの<量子脳>理論』所収
「ツイスター、心、脳 - ペンローズ理論への招待」より

文脈の生成のためには、情報間の関係性や構造化されたさまざまな認知のフレームワークが必要なことはまず間違いないでしょう。しかし、それだけでは不足しているのです。意味を感じる力というのは、ペンローズがプラント的世界という概念を用いて説明しているような非計算的な人間の能力が必要なのだろうという気がします。

ここまではIAにおける構造と関係性をみることで、IAの側に注目してきました。次回からはもう一方の側である人間に注目してみることにします。


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