2006年11月11日

私的インフォメーション・アーキテクチャ考:7.構造と要素間の関係性:量と頻度、外部参照性と反発性

私的インフォメーション・アーキテクチャ考:6.構造と要素間の関係性:モジュール化とモジュール間の関係性」から間が空いてしまいましたが(途中に「私的インフォメーション・アーキテクチャ考:番外編:サバンナに合うように設計されたヒトの意識」はあったとはいえ)、「私的インフォメーション・アーキテクチャ考
」再開です。

量と頻度

アーキテクチャとは、目的・用途に応じた構造体です。それは適切な機能を担うモジュール群とその関係性によって構成され、適切な自由度をもって、それを利用する人(直接的には、人には限らないかもしれません)が目的・用途を果たすことを可能になるよう設計された構造体だと定義することができるのではないかと思います。

私は、これまでの議論の中で、「プラトン的世界」を、主に数学的真理という文脈の中で用いてきた。だが、他にも議論に含められるべき概念がある。プラトンは、「真実」だけでなく、「善」や「美」も絶対的なプラトン的概念であるとした。実際に、私たちの意識がプラトン的世界との接触を実現しており、そしてこのプロセスが計算不可能なものとしてしか実現できないものであるとしたら、私にはそれは非常に重要なものであるように思われる。
ロジャー・ペンローズ『ペンローズの<量子脳>理論』

ペンローズは『皇帝の新しい心』の中で「マンデルブロ集合は、人間の知性が造り出した発明ではなく、むしろ発見なのだ! エベレスト山のように、マンデルブロ集合は、まさに「そこにある」のだ!」と書いているように、数学の分野における新たな理論の発明などを、意識が「プラトン的世界」においてそれを発見する過程だとしており、その上で、意識のもつ1つの機能を上記の引用のように記しています。

僕は、インフォメーション・アーキテクチャというものを考えるとき、この発見という過程を、どのようにその設計のうちに埋め込むかが非常に重要なポイントだと思っています。
数学における新たな発見まで大げさなものではないにしても、僕たちの暮らしには日々多くの発見があり、それはブログやSNSのようにIA上に展開されます。そうした新しい情報の創出の量と頻度をいかに設計のうちに組み込んで考え、さらにその量と頻度によって生み出される効果をいかに利用者の「目的・用途」に貢献できるようIAの設計を行えるかは大きな意味をもつものだと思います。

このブログでも何度か引用している、ホットリンクさんの「企業サイトに対する消費者の書き込み意識調査」に見られる「どのような企業サイトであればより信用できるか?-「情報量が多いサイト」77.7%、「更新頻度が高いサイト」69.9%」という結果。これって僕は決して企業サイトに限ったことでもないし、もっと言えばWebサイトに限ったことではないと思います。
僕らは普通に、よく自分に話しかけてくれる人に共感や愛情を感じたりしますし、同じようによく目にするブランドを信用しやすく、見たことのない商品にはなんとなく不安を感じたりする傾向があると思います。
ブランド・アーキテクチャとパースの記号論」でも紹介したDubberly Design Officeというサンフランシスコのデザインファームの「A Model of Brand」というブランドのコンセプトマップにおいても、エクスペリエンス(体験)の認知が繰り返されることで、人々の心の中でブランド価値が大きくなっていくことが示されています。ブランドとは商品または企業と人々の対話の中で育まれていくもので、そこでは体験−認知の積み重ねが共感や愛情、信頼を醸成します

僕は持論として「Webは構築以上に運用が大事」だという信念をもっていますが、とはいえ、構築時に運用による効果が得られるような設計がなされていなければいけないという意味では、決して構築を軽んじているわけではありません。でなければ、こんな「私的インフォメーション・アーキテクチャ考」なんていう連載をしようなんて考えませんし。
それでも、やっぱり「Webは構築以上に運用が大事」で、そう思うのはここまで書いてきたように、情報発信の量と頻度こそが人々が価値を見出す信頼や共感、愛情などの新たな発見を可能にするものだと思うからです。
このことは以前に「イニシャルからランニングへ」でも書きましたね。
Webに限らずIAの設計は、その意味で情報の量と頻度という時間の経過によって変化する側面もふまえて設計することが非常に重要だと思うのです。

外部参照性

外部参照性。Webならさしづめ外部リンクを想像してもらうとよいでしょうか? あるいはドキュメント単位でみるなら、それが外部サイトであるか同一ドメインのコンテンツなのかは関係がありませんので、「関連情報」「関連ニュース」などの内部のリンクに関しても、外部参照性を実現するものとしてみることができるでしょう。
ここまで情報の量と頻度について書きましたが、その量がある頻度で時間的に増大していくのは何も閉じられたIAの範囲内での話ではありません。閉じられたIAの中では情報量が変わらなくても、外の世界では刻々と情報量は変化しているはずです。そうした外部との関係性をいかに設計しておくかというのもIAの1つの課題ではないかと思います。

僕は古屋兎丸さんのマンガが好きですが、その理由の1つに古屋さんのマンガが非常に多くの外部参照性を含んでいるからです。『π』に出てくるパイダーマンに限らず、初期の作品『Palepoli』から一貫してパロディとしての外部参照性を多用しているのが古屋さんのマンガの特徴だといえると思います。
僕が外部参照性を多く使った作品が好きなのは昔からみたいで、それこそ外部参照性の宝庫といえるエヴァンゲリオン・シリーズやアメリカのコメディー映画なんかは結構ツボにはまります。明日も実は『ナチョ・リブレ』を観にいく予定だったり。

さて、だいぶ前にmixiのコミュニティのトピック「情報の効率的・効果的な収集」で、

基本的に僕の場合、本でもCDでも、1つ見つけると芋づる式に次の欲しいものが見つかるみたいな感じがあって、特に「探す」という行為はめったにしません。

といったことを書きましたが、「芋づる式に次の欲しいものが見つかる」のは、本やCDなど、さまざまなインフォメーション・アーキテクチャにこの外部参照性があるからです。ある意味、僕がこのブログでamazonのアフィリエイトを使って本の紹介をしているのも外部参照性といえるでしょうね。

まず、本でいえば、特に学術系の書籍では「参考文献」の記載があるのは当たり前です。参考文献はWebの場合の外部リンクと同様に外部参照性を実現するものです。
さっき読んでいたジェイ・B・バーニーの『企業戦略論【上】基本編 競争優位の構築と持続』の訳者まえがきにもこんな一文が見当たります。

初学者へのわかりやすさと同時に、本書は戦略分野の研究者およぶ博士課程の学生の使用に耐える専門性を備えている。この一見矛盾すること(平易さと専門性の両立)を可能にするのは、本書の各章末の注と巻末索引の存在である。(中略)戦略を専攻する博士課程の学生は各章の本文をまずざっと読むことによってそのテーマを概観し、次に各章末の注に挙げられた学術論文を「すべて」読破することにより、戦略に関する重要な文献を少なくとも2000年初頭までの範囲はカバーできる。
ジェイ・B・バーニー『企業戦略論【上】基本編 競争優位の構築と持続』訳者まえがき

「2000年初頭までの範囲は」というあたりは、書籍というIAの限界ともいえますが、各ページに関連情報のリンクが用意されていないWebページよりはマシです。これは先の「量と頻度」といったことにも関係することですが、関連情報へのリンクが「分類とメタデータ」化によりうまく情報同士の関係性が設計され、半自動的に更新可能になっていれば、「2000年初頭までの範囲は」みたいにそのドキュメントが生成された日までで外部参照性を限定する必要もなくなるわけですけど。

とはいえ、Webの場合、何より検索というツールがあるので、ドキュメント自体に外部参照性を補助する仕組みがなくても、なんとでもなるわけですが。このあたりはWebが個別のIAであるとともに、ネットワークでつながった大きな1つのIAと見る可能性を示唆するものでもありますね(Googleは実際、そう考えてるわけだし)。

反発性

IAは常に孤独なIAではなく、さらに巨大なIAに組み込まれたものなのかもしれないなと、外部参照性について考えるとき、気づかされます。

スティーブ・ジョンソンは『ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている』の中で、アメリカのテレビ番組が年々、外部参照性をあげるとともに、パッと見ただけでも台詞やシーンの中身がわかるものから、延々シリーズを見続けていないとわからなかったり、さらにはそのシリーズだけを見ていてもわからないものまで含めて、ドラマの中の情報が非常に反発性の強いものになってきていることを指摘しています。この場合、反発性とは「わかりにくさ」の度合いを示すものといえ、反発性が弱ければ提示された情報をすんなりわかることができるといった類の指標とみることができます。

ジョンソンは最近のアメリカのテレビドラマがこの傾向を示すのは、昔のような放送での1度だけの視聴から、ビデオやDVD、ケーブルテレビなどでの繰り返し視聴へというコンテンツビジネスのモデルの変化により、経済的な観点からも1度見てわかるものから繰り返し視聴に耐えられるよう何度見ても新しい発見があるような反発性をもったものに変化しているのではないかと考察しています。

この背後には、テレビがいまや番組単独で機能するのではなく、ネット上での評判(情報)や印刷された解説書みたいなものも含め、単独なIA上のコンテンツというよりも、より大きなIAに組み込まれ、他のコンテンツとリンクされたコンテンツとして機能しているという環境の変化が作用しているといえるでしょう。反発性は外部参照性が当たり前になっている環境において、すべてを自身の閉じたコンテンツ内に埋め込むのではなく、あらかじめ利用者が外部参照性を利用して不足した情報を外に(これは利用者自身の脳に蓄積された知識も含めて)求めることを前提として、設計されます。

反発性の組み込み自体は、IAの問題ではなく、コンテンツの側の問題だと思いますが、それもIA側にきちんと外部参照性を実現する設計が施されていてこそ、コンテンツの側は反発性をうまく利用できるのだということを、IAを設計する側は忘れてはいけないと思います。同じ意味で、SEOといった言葉がWebマーケティングの分野でもてはやされていますが、それもこうした大きな社会環境の変化のなかでみれば、別にマーケティングなんて言葉を持ち出すまでもなくIAとしては最低限実装できていて当然のことのように感じられます。

こうした意味においても、IAとは単にすでに与えられた(想定された)情報コンテンツをいかなる情報構造において構成するかを考えるだけでなく、利用者がそれをどう利用するかという観点で情報の構造を定義し、設計する必要があるのだと思います。当たり前といえば当たり前のことでしかないのですが、意外とそれが考慮されたIAの設計の現場が見たらないのではないでしょうか。



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posted by HIROKI tanahashi at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | IA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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