私的インフォメーション・アーキテクチャ考:番外編:サバンナに合うように設計されたヒトの意識

少し前の「私的インフォメーション・アーキテクチャ考:4.構造と要素間の関係性:分類あるいはメタデータ:その2」というエントリーにyusukeさんからこんなコメントをいただきました。

言葉の相対性は文脈や解釈、つまりその人や場や時間軸の構造によって生まれるものです。
その上でIAが背負う「絶対性」(言葉は1つ)な側面をどのように解決するのかが興味あります。
ま、人間の認知力は柔軟ですから、人間側に変化を強制する形に落ち着くのでしょうが(ある側面では)。

最初の1行はすごく同意。2行目は同じように考える人はやっぱりそこに落ち着くんですねという感想。そして、僕としてはアーキテクトはそれでも特定の状況を設計しなくてはいけないんでしょうねというのが解決法なのかなと思います。

ヒトの認知の際のズレの効用

そうやって設計した上でも、結局、さっきの「Webはブランドの心を増幅する」で書いたように、

情報自体はコピー的な増え方をするわけですけど、コピーされた情報と個々人の解釈の間には微妙な変異が生じます。ヒトと情報のインターフェイスには常にズレが紛れ込みます。そのズレを内包しているからこそ、人それぞれの感じる異なるブランド価値を、共有されたブランド・マインドとして流通させ、かつ蓄積させるのかなと。

といった感じでズレが生じ、それがWebにおいて「心」の増幅を可能します。でなければ、ユーザーはただの情報伝達の役割を果たすコピー機になってしまいますから。

といったあたりが3行目の「人間の認知力は柔軟ですから、人間側に変化を強制する形」というあたりにつながるので、本当は全面的に同意なのですが、あえてこんな可能性も指摘してみたり。

ヒトの認知力は、柔軟かつそれほど柔軟ではなかったりするかも

サバンナに合うように設計されたヒトの意識

最近ようやくマット・リドレーの『やわらかな遺伝子』、原題:"Nature via Nurture"(生まれは育ちを通して)を読み終えましたが、この本では長い間、人間を対象とする遺伝学や心理学などの学問の分野で論争の種となってきた"Nature vs Nurture"(生まれか育ちか)を扱ったものです。この本の中でリドレーは、ヒトが完璧な決定論に縛られていない代わりに、完全な自由を享受できているわけでもないということが示しています。

なので、ヒトは生まれと育ちの両方から脳を含めた身体に染み込んだ前提の範囲内でのみ、柔軟な対応ができると考えたほうが正確なのでしょう。
それは時には既成概念に縛られた石頭な発想にヒトはを閉じ込めることもあるでしょう。また時には、時間というものをたかだかローカルな銀河の一太陽系のまわりをちっぽけな惑星が一周回るというほとんど無意味なものを基準に数え、重さもまたそのちっぽけな惑星のもつ重力を基準に測るというなんともちっぽけな、そして、全宇宙規模で考えるときわめて自己中心的な物差しをもった記述と思考に縛りつけることもあるでしょう。

人間の意識は、都会というジャングルではなく、更新世のサバンナに合うように作られている。
マット・リドレー『やわらかな遺伝子』

IAの側だけでなく、ヒトの側にも当然、Bodyというアーキテクチャがあるわけで、それを超えて機能することはできないわけです。それは制約であると同時に、自由な動作を可能にするためのデザインでもあるわけです。

進化心理学

このあたりの話を研究している分野に進化心理学があります。
進化心理学とは、ジョン・トゥービーとレダ・コズミデスがThe Adapted Mind (1992)に収録された論文"The Psychological Foundations of Culture"で示した分野の学問で、

進化生物学の適応主義のアプローチをとり認知科学の手法を取り込んだ研究で、人間の肉体的形質だけでなく、心的なはたらきの多くも進化の産物であり、領域特異的、内容依存的な多数の適応的モジュール(つまり、一般的な能力を多数の特殊的なケースに応じて使い分けるのではなく、この課題にはこの能力、別の課題には別の能力というように、特殊化された能力の集まり)からなると見なす。

"Nature via Nurture"(生まれは育ちを通して)というリドレーの考えを肯定すると、ヒトの認知は更新世のサバンナに適応するよう設計されたままのデザインを遺伝子を通じて受け継いでおり、それを現在の都会のジャングルという環境で利用しているということになります。
そのためにヒトの認知の柔軟さはある一定の範囲に限られているといえます。それはサバンナで生き残り、種を繁栄させるために交配行為を行うのに適したデザインであり、自分たちが生きる環境を正しく認識するために、地球が太陽系を回るのを時間の基準として認識し、かつ体のリズムもそれにあわせているわけなので、生命誕生40億年だとか、プランク時間だとかいう身体的でない時間に関しては、感覚的に理解できないような設計になっているわけです。

といったヒトの認知はそれほど自由ではないということを踏まえると、情報とヒトとのインターフェイスであるインフォメーションアーキテクチャを論じるには、単に情報の側だけを考慮するのではなく、ヒトの認知や心といったものもその考察の射程に入れることが大事だと思っています。

今考えている「構造と要素間の関係性」の話が一段落したところで、認知という点からヒトの側を論じていくことで、HII(Human Information Interaction)の問題についても取り組んでみようと考えています。


この記事へのコメント

  • yusuke

    3行目は軽い煽りなのですが(w。そうです。HII興味あります。最近はロボットを作ることでそれを考えている人がいることに驚きました。
    http://www.arclamp.jp/blog/archives/desine_no13.html
    身体性(人間の認知が最適化される対象)としてWebという世界に人の認知がどう向くのか。情報を扱う身体性がどう立ち現れるのか。IAの話は、これを抜きにしては完成しないと思います。IAというか、アーキテクチャ全般ですね。面白いなぁ
    2006年11月03日 15:30
  • tanahashi

    フリでしたか。
    yusukeさんのロボットの話を読んだので、
    僕もなるほど身体って確かにアーキテクチャだって思ったんです。

    三連休、熊野に旅行に行ったんですが、
    身体とか自然とか立派なアーキテクチャなんだなってあらためて感じてきました。
    こちらはまた後ほど。
    2006年11月05日 21:02

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