笑い vs. イノベーション

「笑う」という態度を保てるのは強い。最近になって、そんなことを強く感じるようになりました。

お笑い番組などをみたり馬鹿話にげらげら笑うというのではなく、目の前で起きていることを肯定的に受け入れて笑えるような笑い。目の前で起こる事柄を否定する怒りや不満の表情に対して、多少の問題があってもそれを受け入れて肯定できる笑い。そういう笑いができる精神性や社会性の強さについて考えるようになっています。

そんなことをあらためて考えていたので、実際、ある機会に「笑顔」のもつ魅力や強さについてお話させていただいたりもしました。



そういう考えが頭にあったからでしょうか。昨日までニューカレドニアに1週間ほど行っていたのですが、そこでも目に焼き付いたのはメラネシアの人びとの笑顔でした。
フランス領であるニューカレドニアでは、フランス人を中心にヨーロッパの人びとも数多くいて、リゾート地ゆえの笑顔が見られたのですが、それ以上に生活臭あふれるメラネシアの人びとの笑顔のたくましさは魅力的に思えました。

旅行中、離島であるイル・デ・パンに向かうために国内線を利用する機会があったのですが、ゆるーい土地柄を反映してか、8時半のフライトが4時間ほど出発が遅れました。そのときも待合室で不満そうな顔でぐったりとする日本人観光客に比べ、遅れをものともせずに、顔見知りの人たちと楽しそうにおしゃべりをするメラネシアの人びとの笑顔は対照的でした(もちろん、地元民であるメラネシアの人びとが遅れて待たされることに慣れているのだとしても)。

どんなことにも笑う人びと

また、たとえば、すこし前に会社のブログのほうに書いた記事「ピダハンの社会を鏡として、これからの「ソーシャル」を考える」でも紹介していますが、ダニエル・L・エヴェレットという言語人類学者が自身が30年以上生活をともにしたブラジル・アマゾンの少数民族ピダハンの独特の言語と文化を紹介した非常に興味深い1冊、『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』の中でも、やはり「笑い」に関する、こんな記述があります。

ピダハンはどんなことにも笑う。自分の不幸も笑いの種にする。風雨で小屋が吹き飛ばされると、当の持ち主が誰よりも大きな声で笑う。魚がたくさん獲れても笑い、全然獲れなくても笑う。腹いっぱいでも笑い、空腹でも笑う。(略)このみなぎる幸福感というものは説明するのが難しいのだが、わたしが思うにピダハンは、環境が挑んでくるあらゆる事態を切り抜けていく自分の能力を信じ切っていて、何が来ようと楽しむことができるのではないだろうか。

読んでいただいたとおりで「どんなことにも笑う」という場合の「どんなこと」に含まれるなかには、必ずしも笑えない事柄がいくつか含まれます。「自分の不幸」や風雨で自分の住居が飛ばされること、漁がうまくいかなかったこと、空腹であることなどは、僕らの感覚では笑って受け入れるものではなく、不満に感じたり嘆いたりするような事柄です。つまり、そうあることを否定したくなる出来事です。にもかかわらず、ピダパンは僕らが「そうあることを否定したくなる出来事」に対しても笑うというのです。

楽だから笑うのではなく、楽しいと受け入れられるから笑える

著者自身も「だからといってピダハンの生活が楽なわけではない」と書いていますが、先の会社のほうのブログ記事にもすこし詳しく紹介したように、ピダハンは幼児や赤子でさえ、一個の人間として成人した大人と同様に尊重し、それゆえに「優しく世話したり特別に守ってやったりしなければならない対象」と見なすことはなく、自分自身で自分の始末をつけることを当たり前と考える社会です。その社会では、小さな子どもが鋭利な刃物をおもちゃとして振り回したり、燃えさかる火の近くで遊んだりといった危険な状況においても親は注意することもなく、子ども自身に始末をつけさせるように、子どもの頃からすでにその生活は楽なわけではありません。

もちろん、子どもだから生活が楽なわけではないというのではなく、大人になっても病気になっても見てくれる医者もなくお腹が空いても狩や漁で食べ物にありつけなければ食べるものもないような生活環境では決して楽に生活ができる状況ではないからです。

それでもピダハンはいつでも笑っていると著者は言います。

それは生活が楽だからではなく、楽しいからなのでしょう。
楽しく生きるために「ピダハンは何であれ上手に対処することができる」力を、子どもの頃から自分のことは自分で始末をつける術を学ばせてもらうことで、誰もが身につけているからなのでしょう。
楽だから笑うのではなく、楽しいと受け入れられるから笑えるということなのだと思います。

笑いは安定につながり、不満はイノベーションに導く

目の前で起こっている事柄を笑って受け入れられる強さ。それは一方で社会における文化の変容を疎外する要因となり、社会の文化的進歩を拒む姿勢にもつながります。
実際、著者が描くピダハンの人たちも、著者ら西洋人が持ち込む文化や道具や機械を受け入れることなく、昔ながらのピダハンの生活文化に固執する/維持しようとする姿勢をみせます。西洋人のエンジンのついたボートや薬を借りることはあっても、決して自分たちでそれを作れるようになることは望まないといいます。

笑って目の前の事柄を強く受け入れるということは、ヘンリー・ペトロスキーが『失敗学―デザイン工学のパラドクス』(書評はこちら)のなかで「新しい事物や、事物についての考えは、現存する事物に対するわれわれの不満から、また、われわれがかくなされてほしいと思うことを満足になしとげてくれる事物がないことから、発している。より正確に言えば、新しい人工物や新しい技術の発展は、既存の事物や技術が、約束通りに、または当初希望され想像されえた通りに働いてくれないことから生じるのである」と書いた社会にイノベーションをもたらすデザイン的発想が必要とする不満や苛立ちを欠いているということでもあるのです。

もちろん、このように安定してしまっていると、創造性と個性という、西洋においては重要な意味をもつふたつの大切な要素は停滞しがちだ。文化が変容し、進化していくことを大切に考えるのなら、このような生き方はまねできない。なぜなら文化の進化には対立や葛藤、そして難題を乗り越えていこうとする精神が不可欠だからだ。

笑って目の前で起こる出来事を受け入れる強さほど、イノベーションを生み出す発想や行動を原動力となる不満や苛立ちとは相容れないものはないように感じます。それが社会的課題を解決するためのイノベーションであろうと、それは笑いではなく、不満や苛立ちを糧にしか生み出せないものなのだろうと思うのです。
もちろん、社会的イノベーションが目指すものが笑いのある社会であったとしても…。

笑い vs. イノベーション

目の前にある事実を受け入れられず不満に思うからこそ、その状況を変革するためのイノベーションの実現を目指して頭をひねる。もちろん、それはひとつの方法です。
でも、状況のほうを不満に感じて変えようとするのではなく、大らかな気持ちで状況を受け入れて笑ってみせることで自分たちの置かれた状況を好転させるというのも立派な方法ではないでしょうか。
いや、方法というよりも1つの生きる姿勢といったほうが良いかもしれませんが…。

しかしもし自分の人生を脅かすものが何もなくて、自分の属する社会の人びとがみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば。

著者の描くピダハンたちは、どんなにその生活が貧しく、過酷でも、外の西洋人や、すこし西洋の文化を受け入れたまわりのアマゾンの住民たちよりも、自分たちの生活こそが優れていることをすこしも疑いません。それはピダハンたちが「外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子」であまり笑っていないのを知っているからなのでしょう。だからこそ、どんなことにも笑える自分たちの生活文化こそが、どんな苦境も乗り越えて受け入れられる強さをもてる優れた生き方だと信じられるのでしょう。

デザイン思考でイノベーションにつながる発想を生み出すことを仕事にしている僕ですが、その反対側にある、このピダハン的な笑いのもつ力に最近魅了されるのです。

自分自身で笑えるか、イノベーションという外側から来るものに笑わせてもらえるようになるか。
どちらか1つを選択するのはむずかしくとも、ずっと悩み続けてもよい問題だろうと思うのです。



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