否定的な記述の限界
ブログスフィアは多様だといいますが、何がしかの記述を否定しようとするものばかりが増えれば、たちまち多様性は失われていくのではないかと思います。統計的な調査を行ったわけでも、何かしらの検証を行ったわけでもないので断言しませんが、経験的には誰かが何かを否定する、批判するエントリーを書いているときよりも、誰かが何かを肯定する、評価するエントリーを書いているときのほうが、そこに存在する価値評価が広くなるという気がしています。
何かを否定、批判する場合、多くは否定、批判する対象であるオリジナルの文章があらかじめもつ価値の範囲にとどまっていたりします。
否定、批判する側は別の観点から指摘しているつもりなのでしょうが、傍から見ていると単にオリジナルの文章の文脈をあえて外すことで否定すべき箇所を結果的に捏造していたり、たんにオリジナルの文章を別の言葉で言い換えるだけのものであったり、せいぜいちょっとした間違いの揚げ足取りだったりして、しょせんはオリジナルの文章の手のひらの中で遊ばされているといった場合が多いのではないかと思います。
仮に否定的論述がうまくいった場合でも、多くは獰猛な野生の動物を手なづけて家畜化するように、オリジナルの荒々しさをスマートな記述でわかりやすく書き換えただけで、そこに新たな価値は生まれないことが多いのではないか? そんな風に思います。
そうなるのは決して否定、批判する側の考えが足りないからとか、スキルが足りないからとかではなく、おそらく何がしかの対象を否定するという行為自体が、そこに新たな価値評価をもたらす行為とは無縁のものだからなのではないかと思います。
否定によっては新しい価値は生まれず、否定的な記述はそもそもにおいて単にオリジナルに従属する記述であるしかないということなのでしょう。
認めることは新たな価値を追加すること?
その一方で、誰か他人の考えを肯定する場合、意外にも新しい価値評価がそこに生まれる可能性が高いような気がします。何かあるオリジナルに対して、「それはいいね」というだけなら価値は増えない気がしますが、「それいいね」というのとともに「だって○○だから」という形で評価を行う場合、○○が新しい価値を生むことがあるような気がします。これもあくまで経験的にそういうことが多いなと感じるだけで、なぜそうなるのかという確証をもった理由付けなどできるわけではないのですが。
奴隷についても、そして奴隷が主人たる状態とか、<力>とかに関して抱く概念についても同じことが言える。反動的な人間についても、その人間が能動的であることに関して抱く概念についても事情はまったく同じである。至るところ諸価値の、価値評価の逆立ちばかりであり、ちょうど小円窓(牛の眼)を通して見る場合のように、狭隘な側面から眺められた物事とか、逆立ちしたイメージばかりなのである。ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』


何かを否定する場合には、小さな牛の眼(Œil de bœuf)窓の窓枠だけが世界のすべてだという風に見えてしまうのかもしれません。いや、正しくは見えてしまうというより、否定とはそのような語り口なのでしょう。
一方、肯定することとは、小さな牛の眼窓それ自体を評価することなのでしょう。大きな世界の一部として存在する小さな牛の眼窓に対して'oui'ということはその存在を認めることであり、それにより牛の眼窓を眺める視点である自分の立ち位置を新たな価値評価の視点として追加することなのかもしれません。
そして、小さな牛の眼窓がたくさん存在することを認めることが、ブログスフィアが多様性を保つための条件なのかもしれないなと思いました。
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