既存の価値を重荷として背負うのではなく、自分自身の価値を創造する

風邪をひきました。
喉が痛くて、頭が痛い。はかってませんが、おそらく熱はあるでしょう。

前に進む意欲、前に進むしかない状況の認識

さて「「むずかしい」って嘆かない努力をしましょう」というエントリーに、さつませんだい徒然草さんからトラックバックをいただきました。

その中にこんな一文があります。

 会社勤めの頃って、仕事ってほんと「やらされてる」ばっかりだったような気もしますが(若かったし当然なんだけど)、今のように何でも自分で決めてやる立場になってみると、自由を享受してる分、めちゃめちゃ怖かったりするんです。判断一つにしろ、スケジュール一つ組むのにしろ。
 そりゃそうですよね。間違ったら全部自分と家族に降りかかってくるんですから。

さらっと書いてらっしゃいますが、これこそ「むずかしい」なんて言ってられないし、「むずかしい」と言いながらでもとにかくやらなくてはいけない状況だと思います。

僕のあのエントリーは実は特定の一人を想定して書いたエントリーでもあったんですけど、誰かが書いてらっしゃったように「ブログになど書かずに直接言えばいい」という状況で書いたのではなく、むしろ、口で伝えたからあらためてブログに書いたというのが実際です。
特定の一人を想定してはいましたが、その人だけの問題じゃないなと感じたし、自分でも再認識しておかなくてはいけないなと思ったから記録したわけです。さらに言えば、その特定の一人が口でいってもわからないと思ったから書いたのではなく、わかってると思ったから忘れないように書いたわけです。(ようは言葉は悪くても、あれで応援してるつもりだったわけです。本人にはへこんだと言われましたが。そこはあらためてごめん。でも、がんばれ!)

そして、何を記録したかったかといえば、「むずかしい」と言ってはいけないということではなくて、前に進もうという自分の意欲、また、前に進もうとしている他人の意欲を消してはダメだということでした。(特定の言葉を口にしてはいけないなんてことは僕は金輪際ないと考えます。どんな言葉も時と場合によっては価値のあるものになるのではないでしょうか?)
書き方がすこし雑なところもあって、そこがうまく伝えられず、誤解された方もいたようで不快な気持ちにさせてしまったのは申し訳ないなと思いますが、本当に伝えたかったことをあらためて書けば、上記のようになります。

「問題をきちんと定義」することや、「ゴール」と「改善範囲」を決めたり、「スケジュールを切」ることは、前に進みやすくするためには便利なツールです。
でも、上で引用したさつませんだい徒然草さんの言葉に表れているように、「やらされてる」感などは皆無なやるしかない=前に進むしかない状況では、極論するとそれらのツールはなくてもいいのかもしれません。もちろん、あれば便利だと思いますが、なくても最悪「前に進むんだ」という意思さえあればいいのですから。
さつませんだいさんのように自分でお店をやってらっしゃる方なら当然自分がやらなきゃいけない状況を見間違うことはないのでしょうけど、本当の意味ではその状況はサラリーマンだろうと同じはずです。ただ、目を伏せていればそれが見えないだけで、自分の置かれた状況をより将来的な目でみれば、あまり変わらないことに気づくのではないかと思います。

既存の価値を重荷として背負うのではなく、自分自身の価値を創造する

ドゥルーズは、ニーチェが描いてみせた、肯定的な思想の持ち主である立法者としての哲学者から、否定的な思想の持ち主である服従するものとしての哲学者への移行について、こう書いています。

この重み、重荷というのがまさしく高位の諸価値なのである。重みの精神とはこのようなものであって、そういう重みの精神は担ぎ手と担がれる荷物を、反動的で貶められた生を、否定的で貶める思想を、ある同じ砂漠のなかに集めるのである。そうなるとどんな批判も幻想でしかなく、どんな創造も幻影にしか過ぎなくなる。なぜなら担ぎ手ほど創造者にとって正反対のものはないからである。創造するとは軽くすることであり、生の重荷を取り除くこと、生の新たな可能性を作り出すことである。
ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』


ここで描かれている否定とは、多様性の否定としての「1なるもの」を背負うことです。
何か1つの真理なり、答えなり、やらなくてはいけないことがあり、それを担うものとして自分を位置づけ、自分を服従するものにしてしまうことです。
僕は「やらされてる」感のルーツはここにあるのではないかと思います。

一方で、答えなどない世界でとにかく自分でやることを創造しなくてはいけない状況では、何かのルールに従ったり、何かを義務であると必要以上に信じ込んだり、不快な何かをやたらと否定すること以上に、自分で何かをみずから肯定的に選択して、とにかく前に進まなくてはいけないのでしょう。
自分が何者であるかを示すために既存の価値を担うのではなく、とにかく「生活」するために既存の価値を優先する以上に(というのは、それを特に否定するのではないという意味で)、自分がとにかく「生活」できるという価値を生み出さなくてはならないからです

両者には大きな違いがあります。
「「むずかしい」って嘆かない努力をしましょう」では「やりたいこと」についても書きましたが、本当の意味で「やりたいこと」とは既存の価値を担う者になることではなくて、理想的には何も担わなず自分で価値を創造できるようになることなんだろうなと思いました。

既存の価値や誰かの考えを否定することで勝利は得られません。勝利が得られるとしたら、自分が生活の中で選んだ選択肢を何度も繰り返し選べる、その価値を繰り返し選ぶことで肯定できるものを見つけていられるときなのでしょう。
何が正しく、何が間違っているなどという線引きに必要以上にこだわってみても、自分の人生の足しになるとは限りません。何か唯一の解があるのではないかと周囲を見回すよりも、自分が選んだものを、自分が選ぶという行為を信じて、そこから価値を生み出すほうが大事なのかなと思います。

何か1つが答えだなんてことはありません。
それと同時に何かが決定的に間違っているなんてこともありません。

だから、何かを担ってそれで自分を守ってみたり、他人を否定してみたりしても、そこから価値は生じないでしょう。
それより間違いながらでもいいから、とにかく前に進むことで自分自身の価値を生み出すことが大切なんだろうなと思いました。

こんなことをあらためて考えてみるきっかけを作ってくれた、さつませんだいさんに感謝。ありがとうございます。



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  • オレなんかおらんでもええねん
  • Excerpt:  ども、たこ阪店主です。いやぁ、gitanezさんからトラックバックが。まさかあんな著名なブログからTBくるなんてほんと嬉しいですねぇ(ちなみにmixiにはこのブログのためのコミュがあるくらいなんすよ..
  • Weblog: さつませんだい徒然草
  • Tracked: 2006-10-24 20:39