本タイトル: 祖先の物語 ~ドーキンスの生命史~ 上
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とりあえず、上下それぞれ400ページを超えるリチャード・ドーキンスの『祖先の物語 ドーキンスの生命史』の上巻を読み終わったので、忘れないうちにひとまず感想を。
まず最初に一言で言える感想から。
いろんな動物の勉強になります。それだけ買いです(笑)
さて、ここからは得意のうだうだ長い感想を。なぜ逆向きに進化の歴史をたどるのか?
このリチャード・ドーキンスの『祖先の物語』は、ヒトから進化の系統樹をさかのぼって、生命の歴史を探索する本です。時間軸をあえてさかのぼる意図は、1つの種が進化の「本線上」、つまり主役の座にあり、他のものは脇役、端役、一場面だけしか見せ場のない俳優であると考えたい人間の誘惑を否定するのはむずかしい。しかし、その誤りに屈することなしに、歴史的な礼儀を尊重しつつ、公明正大に人間を中心にすえる方法が1つある。その方法とは、私たちの歴史を後ろ向きにさかのぼることであり、それが本書の方法である。
とドーキンス自身によって表現されています。
歴史はそれが物語であり、その物語という線形的な語り口の性質からして、終わりを目的地に据えて語られます。しかし、ドーキンスが見るように、人間中心的に進化の歴史を時間の進行どおりに語ってしまうと、進化が人間を目的として実施されてきたという誤解を招く可能性があります。実際には人間は特別な目的地でもなければ、進化の最終形でもないわけで、ゾウから見ればゾウを目的とした進化の物語を語れるわけですし、すでに絶滅したヒト科の祖先ホモ・エレクトゥスをゴールに据えた物語も、私たち自身の存在を無視すれば実は可能なわけです。製作中だって? 未完成だって? それは人類進化を知っているからこそ言える後知恵の浅はかさだ。その本を弁護するとすれば、もし私たちがホモ・エレクトゥスに面と向かって出会うことがあれば、きっと私たちの目には製作中で未完成の彫刻のように見えたにちがいない。しかし、それは私たちが人類の進化を知っているからにすぎない。現に生きている生物はつねに、自らが置かれた環境のなかで生き残ることにつとめているのである。それは決して未完成なのではない。あるいは別の意味ではつねに未完成なのである。そして、おそらく私たちもまた未完成なのである。
未完成のものを終わりに据え、物語を書くことはむずかしい。それは中途半端なエンディングをもたない物語となってしまい、後味のわるい、欲求不満を生じさせる物語になってしまうでしょう。それを避け、かつ私たち自身がもっとも興味がある人間を中心に進化を語る物語を描くにはどうすればいいか? その解決法としてドーキンスが採用したのが、この逆向きに進化をたどり、すべての生物の共通祖先を見つける旅という物語形式だったわけです。不連続性のあいまいさ
実はこの未完成の中間点から進化を語るというやり口は、ドーキンスの専売特許ではなく、そもそも進化論の創始者であるダーウィンが行った手法です。『種の起源』。このタイトルだけ思い浮かべても、それが『祖先の物語』と類似のものだって感じがしますよね。
その意味でもドーキンスは筋金入りのダーウィン主義者だといえます。
そういうわけで、この逆向きの進化の物語においては、私たちが普段、暗黙のうちに了解している「種」というものが時間をさかのぼりはじめた途端、非常にあいまいなものであることが明示されます。
チンパンジーとヒトは違うと私たちは当たり前のように認識しています。イヌとネコも違うと思っていて、その中間種は存在しないというのが私たちの当然の認識です。
でも、時間をさかのぼりはじめると、今では想起できない中間種が実際に動き始めます。チンパンジーとヒトの中間種。イヌとネコの中間種。鳥とヘビの中間種。カバとクジラの中間種。ヒトとホモ・エレクトゥスとの中間種。
しかし、種の定義では、異なる種同士は交配ができないことになっています。
ここで問題が生じるわけです。じゃあ、いつホモ・エレクトゥスはヒトになったの? ホモ・エレクトゥスを親にもつヒトの子供ってどこかで生じたわけ? 親の世代と子供の世代が倫理的な意味ではなく、生物学的な意味において交配不可能なんて考えられないよね。
そのとおりで実際にそんなことは進化の歴史の中では一度もなかった。進化は常に漸進的で連続的だったというのドーキンスの主張するところで、普通、種を分類するために前提としている不連続性は進化を逆向きにたどりはじめた瞬間、矛盾を生じ始めるわけです。
そのことは先祖に向かっての旅をだいぶ過去に向かって進んだ<サンショウウオの物語>で再び提示されます。カリフォルニア州のセントラル・ヴァレーに棲むサンショウウオがその物語を語ってくれます。
サンショウウオという両生類は、陸上での移動がそんなに上手ではありません。そのため、谷に囲まれ、かつ移動しやすい水場を岩という障害で区切られたセントラル・ヴァレーの広大な区域を自由に移動することはできません。そうしたこともあって、セントラル・ヴァレーにはいくつかの種とみられるサンショウウオが棲んでいます。一方には黄色と黒の鮮やかな斑点を体にもつ種。そしてもう一方には体全体が茶色い体色をもった種。2つの種は、異なる種であるため、相互に交配はできません。
しかし、実際にはこの長細いセントラル・ヴァレーにはその中間種といえる種も棲んでいます。茶色にあいまいな斑点をもった種など。
同じような事例が北極圏をめぐるセグロカモメとニシセグロカモメという種にもみられるそうです。英国では、セグロカモメとニシセグロカモメははっきりと異なる種である。誰でもその違いを言うことができ、最も簡単なのは翼の背の色である。セグロカモメの翼の背は銀灰色で、ニシセグロカモメは濃い灰色からほとんど黒に近い色である、もっと肝心なのは、鳥たち自身も違いを区別できることである。なぜなら、両種はしばしば出会い、時には混群をつくって、互いに横に並んで繁殖することがあるのに、けっして雑種をつくらないからである。
にもかかわらず、北極の周りを回っていくにつれて「セグロカモメ」はしだいにセグロカモメらしくなくなり、しだいにニシセグロカモメに似てくるのである。そしてついには、西ヨーロッパのニシセグロカモメがセグロカモメから始まってリング状につなが連続体のもう一方の端であることが判明するのである。このリングのあらゆる段階を通じて、どの鳥も輪のなかのすぐ隣の鳥と十分によく似ていて、交雑することができる。
このサンショウウオやセグロカモメの例は進化の時間的連続性を、空間的連続性に置き換えた、特殊な例にほかなりません。そして、特殊であるのは、時間ではなく空間的に連続しているということだけで、進化の仕組みにおいてはこの2種も何の特殊性ももっていないのです。
アインシュタイン的に時間を空間的に生きることが可能なら、私たちヒトもホモ・エレクトゥスとリング状に中間種をもったものであることが示せるのかもしれません。不連続精神
進化の歴史をたどると種の区別は非常にあいまいな様相をみせはじめます。人間とチンパンジーのあいだの中間者を連続的に並べれば、そこには明確な区切りを引くことはむずかしくなります。中間者がたまたま絶滅してしまったのは、ほんの偶然にすぎない。私たち2種のあいだに(あるいは、問題にかかわる、どれか2種のあいだに)巨大な深遠があると安易かつ気楽に想像できる理由は、この偶然の出来事だけなのだ。
そして、この偶然が有効なのは、私たちがこの本のような物語の上ではできても、実際には不可能な時間をさかのぼることができないことを前提にしています。セグロカモメからニシセグロカモへの旅のように、北極圏を中心に空間をぐるっと回れるような力を時間的に有していれば、種の区別を可能にする不連続性はたちまち失われます。
ドーキンスは本書を通じて、この類の「不連続精神」なるものに警告を与え続けています。それは直接、「不連続精神」について語られる<サンショウウオの物語>では、貧困と富裕の不連続性、教育現場での成績のレベル分けにおける不連続性、伝染病であるものとそうでないもののあいだの不連続性についても言及されています。僕としてはWeb2.0とそれ以前に関する区分にも実はそれが連続的であることを追加で指摘してもいいかなと思ったりします。
私たちは何かを理解しようというとき、あるものを何かしらの基準で分ける=カテゴライズすることで、わかろうとする「不連続精神」を持っています。これそのものは人間の認識の仕方がそもそもパターン認識であり、かつ差異を価値として利用する言語によってその認知を蓄え、伝達する知識活動の様式をもつものであるから仕方のないことでしょう。
しかし、事実は決して不連続ではなく連続であることをそこで忘れてしまうから問題が生じるのでしょう。ここでの問題とは事実の誤認です。成績がAの人とBの人のあいだには実はそれほど差がない中間者が存在するはずです。○○というサイトあるいは企業はWeb2.0なのかと問うとき、そこに絶対的な区分が存在しないのも同じことです。それは単に区分のための絶対的な定義が存在しないことに起源をもつ問題なのではなく、そもそもの事実が実は私たちが感じている以上に連続的なものだからなのでしょう。
同じように、優秀な人とそうでない人、あるいは成功している企業とそうでない企業のあいだにも明確な区分は存在していないはずです。
しかし、「不連続精神」をもつ私たちの目には、時にはそれが明確に分け隔てられた絶対的な違いをもつものとして理解されがちです。進化を問うにあたってヒトという種をその道のりの最終形である特別な種として誤認してしまうのと同様に、自分以外の人や会社を「隣の芝生は青い」ように誤認してしまうのは、現実の連続性を見つめる目を欠いてしまっているせいなのでしょう。
進化論に関する本を読むといつも感じるのはこうした何かを特別視したり、そうすることでそこに到達するのが「むずかしい」とあきらめたり嘆いたりすることのおろかさですが、このドーキンスの渾身の書はあらためてそんな思いを強くしてくれました。
評価:
評価者: gitanez
評価日付: 2006-10-14
著者: リチャード・ドーキンス
出版年月日: 2006-08-31
出版社: 小学館
ASIN: 4093562113
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