モナドの窓/ホルスト・ブレーデカンプ

普段、人間観察をしていて感じることの1つに「考えることが苦手な人というのはそもそも表現することが苦手な人である場合が多い」というのがあります。
表現のための素材としての言葉や情報を知らなかったり、素材はもっていてもそれを組み合わせて別のアイデアを生み出すための組み立て方、つまり編集術が拙かったりすると、自分自身が考えていることがうまくイメージできなくて、自分の考えを展開させて論理立てて構築していくことができなかったりします。

意外とみんな気づいていないのかな?と思うのは、考えることとはすなわち書く/描くことだということです。
書く/描くためには書こう/描こうという気持ちだけではなく、具体的に書く/描くための表現技術が必要です。表現するとは、他人に対して何かを伝えるために表現する以前に、自分が理解するために必要なものです。表現できないばかりに理解できず、表現できないばかりに考えを展開できないことというのは多々あります。

江戸時代までの人びとが使った表現の方法に「列挙」という方法がありますが、これは様々なものを並び上げ、数え上げる方法で、絵画の分野では「百○図」や「○○尽くし」といった絵として表現されるものです。ただ、この列挙の方法には実はいまの僕らにとっては当たり前な接続詞が使われず、接続詞によって表現可能な関係性が表現できないのです。
だから、列挙の表現を用いていた人びとには、理由や原因と結果だったり、所有や被所有という関係だったり、逆説や反論のような論理的な関係を考えることができませんでした。
そうした論理的思考を欠いた状態では、とうぜん科学的思考は不可能です。科学的思考を可能にするためには、論理学を可能にする表現がすでに存在する必要がありました。絵画でいえば、「百○図」のような絵ではなく、前後や距離感の関係が描かれた遠近法的絵画表現が存在しているように。

1つ前の「「電子書籍」という概念を越えてテクストの新しい形を模索すること」で話し言葉、手書き文字による写本、印刷された書籍、電子書籍やWebページを含むインターネットを通じてアクセスされるデジタルドキュメントという流れのなかで、いかに人間の思考スタイルや社会の様式が変化してきたかに焦点をあてたのもまさにおなじことです。
デジタルドキュメントがあってはじめて可能な表現方法は、印刷本の時代とは別の思考を可能におり、その思考が確実に社会のあり方を変化させています。

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その思考とメディアの関係を明らかにした1人がメディア論のマクルーハンですが、それよりもはるか以前の17世紀後半から18世紀のはじめにかけて、すでにそのことに気づいてみずから実践的に思考や知的作業のための新しいメディア開発に注力していた人がいました。

17世紀後半から18世紀初頭にかけてデカルトやニュートンの同時代人として活躍した哲学者にして数学者であるゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツがその人です。

“ライプニッツによれば「マテリアルのイメージ、あるいは痕跡」を伴わない、かくも抽象的な思考は、存在しない。”

思考が必ず伴う「マテリアル、痕跡」の存在をライプニッツは決して見失わず、さまざまな痕跡の種類によって可能な思考が異なることを自覚していました。
本書は、そんなライプニッツが生涯を通して追求した、新しい知的メディア研究に関するプロジェクト「自然と人工の劇場」について論考した一冊です。

ヴィジュアルシンキング:ロジカルシンキングが失った思考=表現のスタイル

従来、ライプニッツといえば、ニュートンとは別に微積分法を発明/発見したことや、二進法を用いた論理計算を考案したことで知られており、また、そうした面から評価を受けてきました。
“分析哲学、形式論理学、デジタル計算、サイバネティクスによる世界解析、これらの先駆者としてのライプニッツ”というのがごくごく一般的なライプニッツに対する見方です。

しかし、本書ではライプニッツのそうした数学的、論理計算的な影に隠れて、これまで光が当てられてこなかったヴィジュアリストとしてのライプニッツに焦点があてられます。
計算や文字による記述のみでは思考不可能な領域について思考を及ばせるための方法として、ヴィジュアリストであるライプニッツが生涯をかけて追いかけた「自然と人工の劇場」という知的システムの実現というプロジェクトをめぐる彼の履歴に注目するのです。
その注目こそが、計算や文字による思考を越えた、これからのヴィジュアル思考の方向性を模索する試みだろうと僕は考えます。もちろん、17世紀後半から18世紀前半にかけてライプニッツが模索したヴィジュアルシンキングがそのまま現在に通用するというのではなく、いまのロジカルシンキングが失った思考=表現のスタイルに目を向けることで、これまでの思考=表現の限界から抜け出す可能性が模索できるのではないかと思うのです。

「自然と人工の劇場」

それは実際、ライプニッツ自身がみていた可能性でもありました。

しかし、自然と人工の劇場の光のもと、合理計算をひたすら人間のための使命となした哲学者が返す刀で数学化の限界を示し、ものそのものへと眼差しを神の視形式のなぞりと解している。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

そう。ライプニッツは数学化を人間のための使命と考え、その具体的な方法(微積分法や論理計算など)を発明しつつ、その限界を理解し、その限界を超える可能性が「ものそのものへの眼差し」の先にあると考えました。

ライプニッツにとっては宇宙の中で無限の状態にあり永遠に分割可能な被造物と物体は、計算できるものではなく、認めるものなのだ。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

計算ではなく、認める方法。
計算とか理解というのは、現実の世界をあれこれ人間的なはかりを使って切り刻み、自らが扱いやすい部品に加工した上でそれを再び組み合わせながら、論=ストーリー、ヴィジョンを想像する方法です。つまり抽象化による思考です。
それに対してライプニッツは目指したのは切り刻んだり加工することなく生のままの世界を認めたまま思考する方法でした。そのための装置として「死んだ書庫世界」に対するものとして、構想したのが「自然と人工の劇場」でした。

ライプニッツはクンストカマー、珍奇コレクション、絵画キャビネット、解剖学劇場、薬剤局、薬草園、動物園を数え上げ、1つのアンサンブルを考えている。これを総じて自然と人工の劇場として定義するのである。硬直した、それゆえひそかに死んだ書庫世界と対照的に、この劇場をもって「万物の生きた印象と知識」を可能ならしめようというのだ。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』


「生きた印象と知識」のための劇場

17世紀、18世紀のヨーロッパにおけるクンストカマーや珍奇コレクションといえば、このブログではおなじみのバーバラ・M・スタフォード女史が「アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育」や「ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識」のなかで繰り返しテーマとしている、いまだ美術も民族学も生物学も歴史学も1つの博物学という名の下にいっしょくたにされ、画家の描いた絵も、遠い国のめずらしい祭祀用の道具も、めずらしい貝や鉱物も化石もおなじテーブルの上に載せられて陳列された時代の知の劇場でした。
そう。こんな挿絵のように。



そうしたクンストカマーや珍奇コレクションを含む劇場=テアトルムという概念はライプニッツの時代にはまさに、現在でいう美術館の展示室や動物園、植物園、商品陳列台などはもちろんのこと、解剖台やサーカス小屋、賭博場などの物理的な施設、百科全書などのメディア、それからきっといまなら様々なウェブページや検索結果のサマリーなどまでも含めた、情報を陳列してみせる場所だったのです。

今日の語法では「劇場」は芝居の上演される建物であり、演目そのものを指すが、17世紀の語法からすればそれらはあまりに狭い。テアトルムとは、物なり、イデーなりを徹底して見せるための場であり、その手段についての表記であった。それは田舎のひなびた場所に発し、建物を経て、絵画収集や、概念・百科全書・あらゆる書物の感覚的明示化までをカヴァーし、これらは1つの問題を、あるいは1つの対象を記述によって、または図によって、眼に見えるものにしようとするものだった。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

いまのことばでいえば、文字どおり、総合的な意味での「情報アーキテクチャー」がライプニッツの時代のテアトルム概念であり、ライプニッツが追求したのもこの「情報アーキテクチャー」を設計する手法であり、それを用いて可能になる知的作業に関するものでした。

そして、それは現在僕らが知っているよりもはるかに豊穣で、いかがわしさを許容した新たな科学の方向性だったのです。

それに劣らず驚嘆すべきは、ライプニッツの願望の強さ。劇場と賭博宮殿をたんに実演と娯楽のメディアにとどまらず、認識の中心手段として投入したいのだった。「表象の新たな手法」とは、遊戯と娯楽に立脚した諸科学改革を追求するのものだった。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

「遊戯と娯楽に立脚した諸科学改革」というのは、デザイン思考やゲームストーミングなどのコラボレーションの場における創造的作業に近いものを感じないでしょうか。計算できるものではなく、認めるものを対象とした知的作業を可能にする「表象の新たな手法」としてライプニッツが求めたのは、遊戯性や娯楽性などももった「生きた印象と知識」を大事にすることだったのです。

「生きている」とはライプニッツにとって、硬直した書法を触覚的視覚的方法によってはみ出していく一切のことだ。彼がおよそ1671年にマインツで自然と人工の劇場を定義したとき、彼の願いは「生きた印象と知識」を生み出すことだった。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

彼はそれを「硬直した書法」に対置したのです。

記号術

しかし、ここで僕らはライプニッツが「硬直した書法」を否定したと考えるのは間違いです。
何よりライプニッツは微積分法を発明すると同時に、微積分の思考を展開するための書法として微積分記号を同時に発明した人物でもあり、さらに現在のコンピューティングにもつながる二進法を用いた論理計算の創始者なのですから。

あらゆる記号を数学言語に移す、そのための計算法を使うならば、「人類は」新たな道具を手に入れるだろう。「その道具は精神の能力を、メガネが視力を促進するより、はるかに高めてくれ、理性が視覚器官に優越するのと同じ度合いで、顕微鏡や望遠鏡にもまさるだろう」と。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

ライプニッツは人間の思考を高める1つの結合術的書法の1つとして記号術を推奨し、そのためにいくつかの記号を考案しています。それは「硬直した書法」であるとはいえ、やはり「マテリアルのイメージを伴わない抽象的な思考は存在しない」と考えたヴィジュアリストであるライプニッツらしい、具体的なマテリアル=痕跡を用いた思考方法の考案だといえるのです。

実際、記号というヴィジュアル表現以外にも、ライプニッツは生涯かけて無数のスケッチを残しています。
そのスケッチは下の図のように拙い絵ではありましたが、自分の思考を自分よりも絵画表現に長けた画家に伝えるための表現としては十分なものでした。



具体的なマテリアルあるいは紙の上の痕跡として、思考を表現することが思考の可能性を広げることにライプニッツほど意識的だった人はそれほど多くないのではないかと思うのです。
「硬直した書法」によるシステマティックな思考である記号術さえも、十分すぎるほどヴィジュアルシンキングであることを彼は決して見逃しませんでした。

ライプニッツが信頼するのが、一義的に指標化された、ヴィジュアルとして納得できる「形象(フィギュア)」の客観性だったのだ。彼はこれら形象(フィギュア)のことを「書かれた、印とされた、あるいは造形された指標」と定義している。ライプニッツ思考理論の鍵が、これである。紙上に、あるいは他のメディア上に形作られるこうした記号の世界がなければ、諸客体の間をつないでいくシステムマティックな思考は想定できない、と彼は言うのだ。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

ずっと後の時代になって、マクルーハンがアルファベットがその後の西洋的な思考=表現のスタイルを大きく革新する記号の役割を果たしたことに気づいたのと同様か、それ以上の嗅覚をライプニッツはもっていたのだと思います。そして、その嗅覚がライプニッツに様々な計算のための記号術を考案させます。

ただ、そんな人工的な記号以上のものが存在することもライプニッツは忘れません。

「もしもわれわれが、囲いの中で野生動物を、あるいは解剖学教室で骨格を見るごとく、事物そのものを常に眼前に見ることができるのなら、われわれはそれらを記号で表象する必要はさほどないだろう」。表象願望はそのとき記号の層を突っ切って、生き物や対象物に肉薄する。これらは自分で自分を指す記号なのであるから。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

「自分で自分を指す記号」を用いた思考を可能にするためにこそ、「自然と人工の劇場」は必要だったのです。

影絵を通して

ライプニッツの試行錯誤のみならず、17世紀後半から18世紀のヨーロッパは、様々な視覚表現が模索された時代でした。それは先にも書いたとおり娯楽や遊戯であると同時に、新しい思考=表現を模索する試みでもありました。



その時代に注目集めた光学的アイデアの1つに影絵がありましたが、これも他の視覚表現同様にエンターテイメントであり科学でした。

射影計算においてライプニッツの見据えていたことは、1688年起草と思われる自然科学研究システム化のテクストをまって、まさに霹靂のごとくに明らかとなる。そのマルジナリアにはこう公理化してあった。「平面図は無限に多数の立面図を」持っている。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

ライプニッツはこの影絵の影が、人間が見ている物体に他ならないと考えます。

「もし物体が現象であるのなら、そしてわれわれの現れ方から判断されるものであるのなら、物体はリアルではないだろう。なぜならそれは別の者には別の現れ方をするのだから」。こうしたプラトンの影絵批判を想起させるアプローチは、種々の現れ方の集合である世界に対して根底的拒否を意味しかねない。つまり、人の目に映るものはリアルとは言いかねるので、本当の認識に達するには別の手段を講じなければならない。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

そう。人間がみているのは事物そのものではなく、その影であると。
それはプラトンがイデアを想定して、その模倣である絵などの描写を否定したのと同じように、あるいは、デカルトがすべてが夢であり、それを夢だと疑うことだけが存在を証明するものであると考えたのと同じ捉え方でした。

しかし、ライプニッツの思考はそこから別の方向に向かうのです。

ところが、現れ方が種々に変わっていくことこそ、ライプニッツに反対の結論を引き出させる。「であればこそ、物体、空間、運動、時間のリアリティは、本質的に神の現象であるという点、あるいは視の科学の対象であるという点に存在するように思われる」。物体、空間、運動、時間といったこの世のあらゆる形態は、決していかがわしい詐欺師の眼くらましではなく、神のエマナツィオン(流出)なのだ。このエマナツィオンこそ、科学としての光学にふさわしい対象なのである。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

そう。人間が見ている影という現象は、神の現象にほかならないと考え、その神の流出である視覚表現について模索することこそが真実に近づく道であると。
ここにこそライプニッツのヴィジュアリストとしての真骨頂があると思います。

ライプニッツは分かっていたのである。思考とは具象化である。それが紙面の端っこに描き込まれた結び目の図であれ、あるいはまた、解読不能、シュールにさえ見えるスケッチであれ。そう見えるのは、まさにライプニッツにとっては思考を解き放った遊び場だったからなのだ。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

そのスケッチはまさに解読不可能。



だが、その解読不能なスケッチは、普段、解読可能なわかりやすい視覚表現ばかりに囲まれて、理解できない謎から遠ざけられて生きている僕らにはむしろ清々しささえ感じる自由な謎として、新しい可能性の光を放ってみえるのではないでしょうか。

僕らはもっと自分たちの思考を閉じ込めているマテリアルに敏感になり、そこから解き放たれるためのマテリアルを見つける努力をしなくてはいけないのだと思います。
この本を読んで、よりいっそうその思いを強くしました。



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