昨日、「積み重なると増える、増えるとつながるってことかな?」というエントリーで、結果としてベキ分布に従うような成功とそれ以外を隔てる大きな差が生まれる場合でも、成功の側に回るために「必要なのはある種の才能だとか、運だとかではなく、ちゃんと勝ち目のある場所を選んで、そこで地道に投資を続けていくことなのではないか」と書きました。
十分に長い時間をかけるということはいかにその積み重ねを十分に活かしきれるかという課題にほかならないのではないかと思います。
ようするに、時間は与えられるものではなくてつくるものですし、時間をつくり、継続するということは、過去の積み重ねをいかに既存の文脈にひきずられすぎずに異なる文脈によって活かす発想を行えるかということだと思っています。
既存のリソースを異なる文脈で活かす
遠藤秀紀さんの『人体 失敗の進化史』によれば、ヒトなどの耳の骨は、爬虫類の顎の骨の端から進化しているそうです。聴力を向上するために生物が行ったのは、振動を増幅するための新しい骨を生み出すことでなく、身近にあった顎の骨を拝借して用途変更を行うことでした。手持ちのリソースを用いることが、まったく別のところから新しいリソースを手に入れるより、その普及や浸透まで考慮すれば手間が省けるのはビジネスにおいても同じことでしょう(M&Aで外部のリソースを手っ取り早く手にしたとしても、企業文化などの違いで結局は普及や浸透に手間がかかるでしょう)。
たとえば、1つの例として身近なところでは、Ajaxがあります。
JavaScriptというカビの生えかけていたリソースを異なる文脈の導入で再び活性化できたのは、それがすでに既存のブラウザでも使えるという利点があったことを見逃すわけにはいかないでしょう。それがまったく新しい技術の導入によって行わなければいけなかったのだとすれば、その技術にブラウザが対応するのを待たねばならなず、普及や浸透に時間を要し、最悪の場合、自然淘汰によって絶滅という結果を招いたかもしれません。
長く時間をかければ・・・、というと、普通は「もうすこし時間があれば」みたいな悲観的な発想をすることが多いわけですが、それはすでにあった時間を考慮せず、既存のリソースや自分(たち)や他人のこれまでの歩みを正当に評価せず、ただただ「他人の芝は青い」的発想で、流行=新しいものに流されているのではないでしょうか?
十分に長い時間とは、それほど長い時間ではない
しかし、実際には時間なんていくらでもあります。もちろん、人間には寿命があるので無限に時間があるわけでもないでしょう。しかし、無限の時間など必要ないことは、それこそ生物進化が教えてくれています。クジラは最近の研究で、カバにもっとも類縁関係が近いことがわかっています。同じ海で暮らすジュゴンやマナティよりも、カバに近いわけです。しかも、クジラはカバのみならず、ラクダ、ブタ、シカ、ヒツジと同じ鯨偶蹄類に分類されていて、いったんは(偶数の)蹄をもった仲間の中から進化したわけで、その進化のはじまりは恐竜たちが姿を消し、哺乳類たちが多彩な進化をはじめた6500年前よりあとのことでしかないわけです。
実際に偶蹄類の化石がふんだんに見つかり始めるのは、たかだか500年~1,000年前のことにすぎず、また、クジラの祖先と思われるムカシクジラの化石が見出されるのは500年前くらいでしかありません。そのほんの短い期間のあいだにクジラは他の
偶蹄類の仲間とは袂をわかち、再び海に戻って、あの形に進化を行ったわけで、それは、「長く時間をかければ・・・」とはいっても、そんなに気の遠くなるような長い時間を要したわけではなかったわけです。
収斂現象
これら3つの「モグラ」の類似性は収斂現象である。すなわち、その穴掘りという習性のために、異なった発端から、異なった祖先から、独立に進化してきたものである。そしてこれは、3通りの収斂である。キンモグラ類とユーラシアのモグラ類は、フクロモグラに対してよりも、互いにずっと近い類縁関係にあるが、共通の祖先はまちがいなく、穴掘りのスペシャリストではなかった。この3者すべては、どれも穴を掘るがゆえに互いに似ているのである。リチャード・ドーキンス『祖先の物語 ドーキンスの生命史 上』
モグラに似た穴を掘る動物が複数種いると考えると、普通は同じ祖先から進化したものと考えがちですが、分子生物学の研究結果はそうでない証拠をはっきりとつかんでいます。
同じ祖先がモグラに進化したわけではなく、穴を掘るのに適応するために、違う生物がモグラ型になっただけに過ぎないのです。
しかし、それは生物が合目的に進化したというのではなく、自然淘汰がたまたまそうさせたというのが正しい進化の理解ですが。
同じ例は、モグラのみならず、ムササビ型やオオカミ型の動物が有胎盤類にも有袋類にも見つかったり、同じような目の構造をもつイカとヒトがそれぞれ別のやり方でその目の構造を進化させたという具合に、生物進化の歴史には、このような収斂現象は数多く見られます。
「Webは既存のビジネスを代替してる?それとも・・・」で書いたような、既存のビジネスをWebで置き換えることで、既存のビジネスを含むサービス全体が向上するような現象もこのことと比較して考えてみるとどうでしょう。
違ったリソースが同じWebを使うことで、同じような収斂現象としてサービスを向上させる。それに必要なのは、最近注目されるWeb技術をいかに活用するかという話以上に、これまで培ってきた既存のリソースを、いかに異なる文脈でとらえ、Ajaxの場合のようにカビの生えかけた古いリソースをいかにしてリサイクルするかという発想で、頭を働かせられるかということが必要になってくるでしょう?
それはこれまでの歴史を重視するということではないでしょう。歴史とはある種の特定の文脈からのみ描かれたストーリーです。
他の惑星からきた長期的な視野から見る先入観のない観察者なら、コンピューター、超音速飛行機、宇宙探査機などをもつ私たちの文明意を、飛躍的大前進の後の1つの付け足しくらいにしか見ないかもしれない。非常に長い地質学的な時間尺度のうえでは、システィナ礼拝堂から特殊相対性理論まで、ゴルトベルク変奏曲からゴールドバッハの予想まで。現代までに達成されたすべては、ヴィンドルフのヴィーナスやラスコー壁画とほとんど同時代であり、すべてが同じ文化革命の一部であり、すべてが長い前期旧石器時代の停滞の後に起こった、華々しい文化的高揚の一部であると見ることができるだろう。リチャード・ドーキンス『祖先の物語 ドーキンスの生命史 上』
歴史には事実のすべてがストーリーに組み入れられているわけではなく、いまを説明するために有意なリソースのみを文脈にあう形で整理され、つなぎあわされているにすぎません。そこに別の付加価値を生み出そうとすれば、既存のリソースを別の歴史=ストーリーで語り始めることが重要なわけです。
リソースとしての既存資源あるいは同じく蓄積された時間そのものをいかに異なる文脈に置いてみることができるかという発想です。
しかし、実際には、ビジネスにおいては、こうした既存のリソースを活かすということが正統的に受け入れられていないことが多いのではないでしょうか?
よく言われるアメリカ型とヨーロッパ型のブランディングの違いでも、アメリカ型がスクラップ&ビルドでブランドを1から構築しようとするのに対し、ヨーロッパ型のブランディングは、古くからブランドを育てようとする傾向があります。もちろん、グローバル化した現在にはこの違いの境界はきわめてあいまいなものになりつつあるのでしょうけど、それでも両者をブランディングに対する2つのモデルとして考えてみることは有効でしょう。
では、その際、ブランドのDNAをどこに、どういう形で保持するのか?
それをブランドのマニュアルという固有な文脈を含んだ形でもつのか、1つの文脈にとらわれることを回避した、なにかしらのモジュール群+フレームワークとして存在させるのか?
そして、やはり、そのDNAあるいはモジュールの素材はいったい何なのか?
こうしたことが、持続可能なブランド、そして、環境変化の適応のための変化に必要な十分に長い時間をかけるだけの余裕を、1生物種としての企業に与えてくれるのではないでしょうか。
関連エントリー
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この記事へのコメント
hal*
逆にナップスターとタワレコの提携は好感を持ちました。僕ならさらに東芝EMIやインディーズレーベルと手を組んで、そのナレッジ、意欲、を利用し(公衆送信権等著作隣接権は利用せずレコード会社に帰属させる)ブランディングを強化。これをユーザーのナレッジとマッシュアップさせて優位性を築く…などと考えていた時期がありました。(2年前のこと)
既存の価値を正しく評価する目を持てば、未だ語られぬ新しいストーリーも多くあるように思います。