わかったつもり 読解力がつかない本当の原因/西林克彦


本タイトル: わかったつもり 読解力がつかない本当の原因

コメント:
すこし前に「読みやすさとわかりやすさ」というエントリーで、読みやすい文章とわかりやすい文章は違うもので、その違いは読む対象と理解する対象の違いによるものではないかといったことを書きました。いくら読む文章が読みやすかったとしても、書かれている内容が馴染みのないもの(例えば、マダガスカル島に棲息するアイアイの生態だとか、体の大きさと脳の大きさの比較を示す大脳化指数など)であれば、理解することがむずかしい場合もあるということです。

と、そんなことを考えていた矢先に、うちの社長が貸してくれたのがこの本。
なぜ、文章を読んで「わからない」ことがあるのか。そして、「わかったつもり」という、いちおは「わかった」状態の安定状態が、「わからない」状態以上に知識の取得の障害になるのはなぜなのか。
この本はそんなことを扱っています。

「わからない」「わかった」「よりわかった」

この本では人が文章を読んだ際の状態を「わからない」「わかった」「よりわかった」という3つの段階に分けています。

「わからない」というのは割と明確な段階で、つまり読んではみたもののなんだかさっぱりわからないという状態です。
そして、「わかった」という状態が本書で「わかったつもり」と称される、とりあえず「わからない」と思えることが浮かばない状態で、これは「わからない」と思っていることがない状態なので、それ以上、文章を読み込もうとは思わない状態です。

しかし、僕たちが文章を読む際によくあるのは、「わかった」と思っても、実はそれは最初から大体わかっていたことをあらためて納得のいくよう整理された文章を提示されたり、これまでつながらなかったことがきちんとつなげて説明してもらえたような文章を読んだりする際に、とりあえず「わかったつもり」になるのではないでしょうか? 結局、その場合は知識はあまり増えていないわけです。
ようするに、自分の思考の文脈や既存の知識が、文章が表現しようとしているものの背景と一致しただけのことであって、それはいわゆる読解とはほど遠い状態なわけです。

著者はさらに、自分の思い込みによる文脈をいったん外し、別の文脈でもって文章を読むことで「わかったつもり」から「よりわかった」状態に移行することができると記しています。

文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私たちにはその意味が見えなかっただろうということです。すなわち、私たちには、私たちが気に留め、それを使って積極的に問うたことしか見えないのです。それ以外のことは、「見えていない」とも思わないのです。
西林克彦『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』


スキーマ、文脈、活性化

私たちが「よりわかった」状態に到達するのを妨げるのは「わからない」ことではなく、「わかったつもり」でいることです。

著者は認知心理学のモデルを用いて、この「わかったつもり」がなぜ発生してしまうかを説明してくれています。

  • スキーマ:私たちの中に既に存在しているひとまとまりの知識
  • 文脈:物事・情報などが埋めこまれている背景・状況
  • 活性化:全体の知識の一部分にスポットライトを当てて使えるようにすること

僕たちは何かを理解しようとする際、必ずあらかじめもっている知識を利用して、わかろうとします。しかし、はじめに書いた「読みやすさとわかりやすさ」のエントリーでの「書かれている内容が馴染みのないもの」だったりすると、既存の知識は使えませんし、仮に使えたとしてもどう使えばいいかが検討がつかなかったりするわけです。そうなると、当然「わからない」という状態になります。

しかし、本当はそこに書かれている対象のことは知っていても、まさかそれがあれだと気づかない場合、僕たちは自分の中にある「あれ」のスキーマを呼び出すことができず、やっぱり「わからない」わけです。
その場合、それがあれだと気づかない状態は、それが示す文脈が「あれ」との関係を示唆しなかったりするわけです。

文脈がわからなければ「わからない」。
西林克彦『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』


よく友人や知人が突然話しかけてきたものの、彼(女)が何を言っているのかわからないことってないでしょうか? そういう時ってたいていは、彼(女)のほうには文脈があるのだけれど、それが聞いているこっちには伝わってきていない場合だったりすることが多いのではないでしょうか。
そういう場合、「何のこと言ってるの?」と訊くと、たいていは謎がとけて、一瞬にして理解できたりするのではないでしょうか? 「わかる」ということは文脈によって、スキーマを活性化させることだったりします。

わかるということは答えを見つけることではない

しかし、文脈が固定されてしまうことで「わかった」こと以外が「わからない」状態にもなりますし、さらに「わからない」ことがあることにも気づかない「わかったつもり」の状態になってしまうことがあります。
いまは本当に情報が多いので、僕たちの中には数多くのスキーマが存在しています。そして、そのスキーマはその知識を得たときの文脈とともに保存されていることが多いでしょうから、自然と保存された知識はその文脈上でしか理解されていなかったりします。

例えば、僕たちは学校でニュートン力学を習ってきたので、空間や時間は絶対的なものと考えがちですが、実際にはアインシュタインの理論が示すとおり、どちらも相対的なものでしかありません。しかし、学校で習ってきた以上に、僕らが普通に生活しているうえではニュートン力学が示す文脈こそ、自然だったりもするので、なかなかアインシュタインの文脈における空間や時間の相対性を「わかった」状態になるのはむずかしかったりするのではないでしょうか?

とはいえ、アインシュタインの理論が示すのは、ニュートン力学が間違っているということではありません。科学には絶対的な答えがあると考えがちですが、実際にはそうではなく、ある特定のある状況下において観察を行うとこういう法則性が存在すると示しているのが科学にすぎません。
つまり、解釈は複数存在するのであり、そこに唯一の答えがあるわけではないのです。

整合性のある解釈は、複数の存在が可能です。したがって、唯一絶対正しいという解釈は存在しません。しかし、ある解釈を「整合性がない」という観点から否定することは論理的にも実際にも可能で、しかも簡単です。ですから、「正しい」と「間違っている」という判定は、シンメトリーなものではありません。後者は明確に判定できますが、前者は「整合性はある」とか「間違っているとは言えない」という判定しかできないのです。
西林克彦『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』

唯一の答えはありませんが、間違った解釈は存在するわけです。読解力をつける、考える力をつけるというのは、唯一の答えを求めることではなくて、解釈の整合性を問う力をつけ、さらに複数の解釈が成り立つことを理解したうえで、それぞれの解釈にいたる文脈をいかに多く見つけられるかに関わる力をつけることではないかと思います

最近、ブログなどを見ていると、いまだにWeb2.0がわからない、ロングテールがわからないといった文章を見かけます。単にわからないというのはいいんですけど、いろんなブログやメディア系の記事を引用したり、リンクをはったりして、比較を行いながら、よけいに「わからなくなった」と言っていたりする人を見かけると、ちょっと「あれ?」って感じます。

「わかる」ということが答えを求めることとイコールなら、わからないのは当然です。そこで求められる答えはきっと定義に近いもので、そもそも定義が存在しないことから議論が起きているWeb2.0やロングテールといった対象に対して、唯一の答えを求め、わからないと言ったところで、何の解決も得られるはずもないのです。
そこにはさまざまな文脈により複数の解釈が存在するのですから、どの文脈ではどういう解釈が成り立つだとか、ある解釈は内部で整合性がとれていないので間違った解釈になっているとかを理解することそのものが、真にWeb2.0やロングテールを「よりわかった」という状態になることだと思います。
とはいえ、Web2.0やロングテールを「わからない」といっている人より問題なのは、この本で問題視されていることを適用すれば、それを「わかったつもり」になっている人かもしれませんね。

P.S.

この話って単に文章を読み解くというだけの認知の話ではなくて、もうすこし広い意味での認知の話では? そう思い、関連エントリーとして「わかってしまうとわからないことも」を書きました。

評価: stars

評価者: gitanez

評価日付: 2006-10-05

画像(URL):

著者: 西林 克彦

出版年月日: 2005-09-20

出版社: 光文社

ASIN: 4334033229

この記事へのコメント

  • hal*

    自分の場合は、「わからない」と「わかった(つもり)」の間に「保留」を加えた4段階に分けて日々生活してます。
    漱石の小説にこんな一節があります。
    「鴻雁の北に去りて一鳥の南に来るも鳥の身になってはそれなりの弁解があるはずじゃ」
    つまりこれは、渡り鳥がなんで移動するのか、それはさっぱり解らないけれどもそこには自分の想像が及ばない文脈があるのだろうという想定をした所で思考を一時停止させているのだと思います。

    「分かった」とはよく言ったもので、自分がそれをどの様に受け取るべきか、AなのかBなのか、その答えを探るフェーズと、自分の中で答えをどちらかに決めて次のことを考え始めるフェーズとの分解点、思考を分かつ点なのだと考えています。
    そう考えると、「分かって」しまうことには常に相当のリスクがあるわけで、覚悟が必要となります。

    初めて受け取るメールに「好きです(ハート)」と書いてあったからとて、この一文だけで彼女の真意を分かってしまえる(分かったつもりになる)人は傷つく事の多い人生を送るでしょう。かと言って、何も分からない鈍感な男はチャンスを逃します。
    こんなときは、「わからなく」ても良いけれど、AなのかBなのかCなのか可能性を整理して「保留」にしておくのが一番だと思っています。
    2006年10月08日 18:51
  • tanahashi

    hal*さんのいう「保留」はたぶん、この本の著者が「わかったつもり」を回避する方法として提示しているものに近いのかなって思います。
    「保留」にすることで、知への渇望を失わない状態を維持することは、「わかったつもり」になることで新たな知を求めなくなってしまうことを回避できますからね。
    2006年10月08日 23:42
  • 成功の素

     初めまして、成功の素といいます。

     「読解力がなかなかつかない理由」をまさに探していたところです。 

     仕事上、時々回りの理解の速さと自分の理解力の遅さのギャップに悩まされていました。

     とても参考になりました。 ありがとうございます。 

    また時々立ち寄らせてください。
    2009年02月26日 17:35
  • tanahashi

    成功の素 さん、

    ぜひ、ここで紹介している本のほうも読んでみてください。
    さらに参考になると思いますので。
    2009年02月26日 21:59

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