個体という乗り物、企業(サイト)という乗り物

リチャード・ドーキンスの『祖先の物語』は、ヒトから進化の系統樹をさかのぼって、生命の歴史を探索する本ですが、一見、この単純に思える遡行作業は意外と困難なことが読んでいると伝わってきます。単純にヒト科の祖先を探す道程さえ困難なものがあります。

むずかしい理由の1つは、証拠となる化石が断片的にしか存在しないことです。といっても、ドーキンス自身が書いているとおり、化石の存在は決して「祖先の物語」を語るために不可欠なものではなくて、「ボーナス」みたいなものだそうです。
「祖先の物語」を語るために不可欠なのは、むしろ、書かれたもの(シニフィアン)としての遺伝子情報だといいます。

遺伝子の系統樹は1つではない

しかし、この遺伝子による記録も決して「祖先の物語」語りを決定的に容易にしてくれるものではなさそうです。それは記録として残された家系図をたどるようには、祖先にたどりつくことはむずかしいもののようです。

「遺伝子の系統樹」と「人間の家系図」のあいだには顕著な違いがある。両親から由来する人間と違って、遺伝子は1つの親しかもたない。あなたの遺伝子の1つ1つはどれもあなたの父親と母親かのどちらか一方から、あなたの4人の祖父母のうちのたった1人から、そして8人の曾祖父母のうちのたった1人から・・・・・・来たものである。しかし、すべての人間が伝統的なやり方で祖先の系譜をさかのぼっていくときには、2人の両親、4人の祖父母、8人の曾祖父母からの・・・・・・平等な子孫なのである。
リチャード・ドーキンス『祖先の物語 ドーキンスの生命史 上』

遺伝子は父親か母親のいずれかから受け継がれます。しかし、その父親か母親の遺伝子も、そのまた父親か母親の遺伝子から受け継がれたものです。
それがどちらの親から受け継がれるかは予測できるものではありません。ほんの一握りの例外-Y染色体とミトコンドリアDNA-を除いて。
Y染色体は代々父系のみを通じて受け継がれ、反対にミトコンドリアDNAは母系のみを通じて受け継がれます。
そう考えると、ヒトの祖先を探すのは意外に簡単なようにも思えますが、実際はそうではないようです。

1つの種としての人間は、個人としての人間と同じように、さまざまな供給源からの混じり合った遺伝子を収める一時的な容器なのである。個体は、遺伝子が歴史を通じてたどった縦横に入り乱れるルートの一時的な会合点である。これは私の最初の本『利己的な遺伝子』の中心的なメッセージを、系統樹に基礎を置いたやり方で表現しているのである。
リチャード・ドーキンス『祖先の物語 ドーキンスの生命史 上』

ようするに、遺伝子情報を元に祖先をたどろうとすれば、出発点として選んだ遺伝子が何であるか(Y染色体か、ミトコンドリアDNAか、はたまた別の遺伝子か)によって、系統樹のルートは複数存在することになります。それは決してアダムとイブにはたどりつかず、現在の人類のすべての祖先であるY染色体の持ち主であるアダムと、同じく現在の人類のすべての祖先であるミトコンドリアDNAの持ち主であるイブはまったく出会わなかったどころか、それぞれ大きく異なる時代を生きていた可能性も出てくるわけです。

そうなると、単純に遺伝子情報の系統樹をたどっただけでは現在のすべての人類の共通祖先にたどりつくことはむずかしく、彼(あるいは彼女)がいつの時代にどこで生きていたかを知るのは、かなりむずかしくなります。

といいつつ、本書ではそのむずかしさをある程度克服して、現在の人類のすべての共通祖先がおおよそいつの時代にどこで生きていたかはつきとめています。このあたりはまぁ、実際手にとって読んでみてください。

個々の情報という遺伝子、企業サイトという乗り物

ドーキンスは『利己的な遺伝子』の中で、人間を含めたいかなる動物も、遺伝子を残すためのヴィークル(乗り物)に過ぎないと書いています。
「過ぎない」という言い方はいささか刺激的で、実際、『利己的な遺伝子』の発表当初は世界中にセンセーションを巻き起こしたようですし、賛否両論の議論は今日まで続いているようです。
しかし、「過ぎない」かどうかは別として、遺伝子が人間を含む生物に乗っているのは確かでしょう。

それと同じ意味で、利己的な人々は企業というヴィークル(乗り物)に乗っているに過ぎないといえば言い過ぎでしょうか? いや、実は僕の言いたいことはそこではなくて、もうすこし刺激の少ないところで、企業サイトは個々の情報が自身のコピーを残すための乗り物に過ぎないということです。

企業サイトに限らず、個人ブログなどでもそうなのですが、検索エンジン経由だったり、RSSリーダー経由だったり、ソーシャルブックマーク経由だったりで、個々の記事ページを閲覧するのが当たり前になっている現在、おそらく人気のある(アクセス数の多い)ページほど、同一サイトのリンクをたどって閲覧される数よりも、外部からのさまざまなリンクをたどって閲覧される数のほうが多い傾向があると思います。
思いますというか、僕が仕事でかかわっていたりするサイトのアクセス傾向をみると、たいてい、そうなっています。

そういったアクセス経路をみていると、サイトという境界線はないのも同然で、あらためてWebってネットワークなんだねって感じます。そうなると、個々の情報がどこに存在しているかというのは、サイトの管理者、オーナーにとっては重要であっても、閲覧する側にとってはそれほど重要ではないのではないかと思えてもきます。
ある程度、信頼性を求める場合、そのサイトがどういう人、あるいは企業によって運営され、情報源として信頼できそうかということはあると思いますが、その場合でも、ある程度、信頼できそうな人が仮に無名のサイトに記事を投稿している場合を考えれば、信頼は必ずしもサイトに付随しているものではなく、人なり企業なりに付随していると考えたほうが自然でしょう。

ミーム

実際、ドーキンスは『利己的な遺伝子』の中で文化遺伝子としてのミームの存在を想定した議論を提示していますが、サイトに掲載された情報はある意味ではサイトという宿主に巣くうミームなのかもしれません。いや、記事ひとつひとつはまだミームそのものではなく、遺伝子がさまざまなたんぱく質を合成するように、ミームによって作り出された合成物とみたほうがよいのかもしれません。
しかし、当然、Webサイトの設計者なり管理者は、自分たち自身が遺伝子の単なる乗り物であることをおいそれとは認められないのと同様に、自身のブログ、自社の企業サイトを単なるミームの乗り物と認めることはできないでしょう。

それでも、サイトに掲載された情報の閲覧経路は、遺伝子の系統樹が複数存在するように、数多く存在します。それは家系図のような見栄えのする階層構造できちんと構造化されたサイトのリンク構造とはまったく別の、ネットワークでつながっており、そこから内部で得られる以上のアクセスが見込まれるわけです。
自分たちの個を守るのはもちろん重要ですが、自分たちの血となり肉となるかもしれない外部からの閲覧が、外から来ているのだということだけはきちんと認識した上で、情報設計なり、コミュニケーション戦略なりを練ったほうがよいのでしょう。

  


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