いや、正確には「今読んでいる」というより、思い出したときに手に取ってはすこしずつ読み進めているという感じでしょうか。
その意味では、本って、自分が好きな時にゆっくりしたペースで読めばいいのだというのをあらためて思い出させてくれる本です。

さて、その本のなかでウンベルト・エーコがこんなことを言っています。
「じっさい、過去を再構築するとき、ただ1つの情報源に依拠するのは望ましくありません」と。
さらにエーコは「時間がたつと、ある種の文書はどんな解釈も撥ね返すようになります」と続けます。
そして、そのことを説明するのに、こんな例を出します。
20年前、NASAかどこかの米国政府機関が、核廃棄物を埋める場所について具体的に話し合いました。核廃棄物の放射能は1万年—とにかく天文学的な数字です—持続することが知られています。問題になったのは、土地がどこかに見つかったとしても、そこへの侵入を防ぐために、どのような標識でまわりを取り囲めばいいのか、わからないということでした。
2、3000年たったら、読み解く鍵の失われた言語というのが出てくるのではないでしょうか。5000年後に人類が姿を消し、遠い宇宙からの来訪者たちが地球に降り立った場合、問題の土地に近づいてはいけないということをどうやって説明すればよいでしょう。ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』
ある意味では、いまの僕らにとっても気にかかる内容です。
でも、ここでの問題は核廃棄物の是非ではなく、情報の伝達可能性に関してです。
今を未来に伝えられるか? 今僕らは過去を知ることができるか?
僕らはついつい過去に書かれて今なお残っているものだけを頼りに、それが過去の真実であるかのように誤解してしまいます。でも、想像してみましょう。
いまから何百年もあとの人びとが、いま僕らがせっせとTwitterに投稿している内容をみて、僕らが生きているいまという時代を想像したらどうでしょう。
そのとき、僕らの生きた時代はどれほど残酷で悲惨な時代だと思われるのでしょうか。あるいは、なんて能天気な時代な人たちだと思われるのでしょうか。
ソーシャルメディアではポジティブな発言をしましょう、と言ったところで、大部分は、愚痴や、誰かの悪口や、悲惨なニュースや、それまでは気にも留めていなかった有名人の訃報を嘆いたつぶやきだったりします。そうした情報だけを頼りに後の人びとは僕らの時代をどうイメージするのか?
そもそもそれが何を指すのかすっかりわからなくなっている名詞なども出てくることでしょう。
そういう時代間のギャップを越えて、僕らは何かを伝えられると信じられるでしょうか? そして、それが信じられないくせに、どうして過去をいまの地続きであるかのように安易な妄想をしてしまうのでしょうか。
過去についての知識は馬鹿や間抜けや敵が書いたものに由来している
エーコはこんなことも言っています。我々は過去についての大部分を書籍から得ることがいちばん多いんですが、そういった知識が伝わってくるのは、馬鹿や間抜けや狂信的な敵のおかげなんです。ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』
僕ら自身が自分の認めたものや良いと思っているものに対して言葉を費やすより、不満に感じたり敵視したり批判したい対象についてに対してのほうが言葉を費やせるように、過去の人びとだって同じ傾向があったのではないでしょうか。
実際、大読書家の2人が指摘しているのもそうした例が少なくないということです。
例えば、エーコが紹介するのは、現在生きている僕らが知っているストア派についての情報の大部分が、ストア派の思想に反駁していたセクストゥス・エンピリクスの文章によるということです。
また同じように、ソクラテス以前の哲学的断片に関してはアエティウスの文章を通して知るしかないのですが、エーコ曰く「アエティウスというやつは正真正銘のバカ」だそうで、彼の言うことがソクラテス以前の哲学者の精神に完全に忠実とは思えないことや、はたまたガリア人について、ガリア戦争を開始したローマのガイウス・ユリウス・カエサルが彼らの敵として目で書いたことを通して見ることができないことなどを指摘しています。
あるいは、エーコの対談相手であるジャン=クロード・カリエールによれば、新約聖書に魔術師シモンという人物が登場するそうですが、このキリストと同時代を生きた人物は『使徒行伝』にしか登場せず、シモンを異端視している使徒たちの言動のみによって伝えられている人物です。使徒たちは、シモンがイエスの不思議な力をお金で聖ペテロから買おうとした「聖職売買(シモニー)」の廉でシモンを告発しています。ところが、このシモンという人は弟子が大勢付き添ってもいたし、奇跡を行なう人と呼ばれていた人で、少なくとも使徒たちがいうようなとんでもないペテン師ではなかったようです。
偉大な過去と低俗ないま
僕らは、本というと、正しいことや優れたことや美しいことや役に立つことばかりが書かれているように誤解しています。確かに、現在のビジネスとてしの出版や過去の様々な権力の検閲などを考えると、悪い本とか間違った内容の本、無意味な本や役に立たない本などは存在するのがむずかしいと思われるかもしれません。
しかし、この本を読んでいると、まったくそんなことはなく、歴史的にも常に無意味な本を書く、馬鹿や間抜けや狂信的な敵が存在していたことがわかります。そして、一部の過去に関しては、先にも書いたようにそうした人びとが書いたことしかすでにわからなくなっていることもあるのです。
Twitterや2chなど、日頃から身近なところに、バカなこと、間抜けなこと、誰かを敵視した批判や愚痴を吐き出しつづけている自分たち自身のことを忘れて、僕らは過去の記述の性善説をある程度信じてしまっています。すくなくとも自分たちと同じ時代を生きている同胞が書くもの以外の、過去の「偉大な」書物に対しては盲目的に書かれた内容を真実と捉えてしまう傾向があります。
でも、そういう偉大な過去を信じて、いまをともにする同時代を低く見積もってしまうのはそもそも人間の性なのかもしれません。2人が紹介してくれているように、ベートーヴェンの交響曲第三番が「猥雑な騒音」「音楽の最期」と同時代の人びとに評されたり、シェイクスピアやバルザック、ヴィクトル・ユゴーも大勢の非難を浴びたりしていたというのですから。
人類はまさに途方もない存在です。火を発見し、都市を建設し、見事な詩を書き、世界を解釈し、神話の神々を絵に描きました。しかし同時に、同胞を相手に戦争を繰り返し、互いに騙しあい、環境を破壊しつづけてきました。知的で崇高な美徳と低俗な愚行を合わせて評価すれば中くらいの点数になります。ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』
エーコとカリエールの2人は、様々な珍説、愚説を礼賛します。
それはこんな風な崇高な美徳と低俗な愚行を合わせをもつ人間のオマージュとして、書物という存在を愛しているからなのでしょう。
それはネットより、印刷された書物のほうが偉大だと考える、あまりに杜撰なメディア論とは違い、はるかに「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」の愛に満ちた理解であると言えるように思います。
そんな2人が対談している本だからこそ、ゆっくりとした読書体験を与えてくれているのかもしれません。
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