ビジュアル・シンキング、タンジブル・シンキング

今日、会社のほうのブログにも「発想のための「レシピ」や「方程式」は存在しない。」という記事のなかで紹介しましたが、クーリエ・ジャポン1月号に掲載され、Webでも公開されて一部で話題になっているMIT石井教授のインタビューが発想とヴィジュアライズの強い結びつきという観点からなかなか興味深かったです。

「MITメディアラボ石井裕副所長インタビュー(前編): クーリエ・ジャポンの現場から」



そのインタビューのなかで、石井教授は「発想において「レシピ」や「方程式」のようなものは存在しません」と言っている一方で、ご自身の発想の方法について、例えば、語っています。

いい問いを発することは答えを出すことよりもはるかに大事です。なかでも最も重要な問いが「なぜ?」です。「なぜ?」という問いを何度も何度も繰り返していると、答えは哲学の境地にまで辿り着きます。

自分のアイディアを撃ち落とすための「問い」というミサイルをとにかくたくさん用意する。そして、どのミサイルからも撃ち落とされないようにアイディアを高めていく、といった訓練を日々ずっとやっていますよ。

そうなんです。アイデアが必要なのであれば、疑問を生み出すことが大事だと僕も思います。
このブログを以前から読んでいただいている方であれば、「なぜ?」を繰り返し発することでアイデアを生み、さらに自分のアイデアを生むものであるということが「なぜ?を問う力」や「想像力とは間違いを創造的に活用することに他ならない」、「僕たちはいつも間違えてる、だから…」などのエントリーで、繰り返し何度も書き方を変えて書きつづけている「自分の間違いに気付くことで、新しい知を得る」ための「当たり前に対する疑い」ということと同じであることにわかっていただけるのではないかと思います。あっ、「好奇心=「わからない」をつくること」なんてエントリーもありました。

ビジュアル・シンキング、タンジブル・シンキングとしてのプロトタイピング

そして、“自分のアイディアを撃ち落とすための「問い」というミサイルをとにかくたくさん用意する”ための具体的な方法の1つがプロトタイピングなんですね。

僕が文庫版の解説を書かせてもらった『フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論』で知られるヘンリー・ペトロスキーさんの『失敗学―デザイン工学のパラドクス』では、次のようなIDEOの信条も、まさに自分たちの仮説としてのアイデアを撃ち落とすミサイルの必要性を認めてのものです。

もし「プロジェクトが、明らかにものになりそうもないものを含めて、大量の原型を生み出していないなら、何かがひどく間違っている」のだ。だから、IDEOの信条は「早いうちに何度も間違えろ」である。

間違えたアイデアを撃ち落とすミサイル。でも、その間違えを「なぜ?」というミサイルで撃ち落とそうとすれば、撃ち落とすターゲットが視認でき、触知できる必要がある。だからこそ、スケッチをしたり、プロトタイプを作ったりして、見える形に、触れる形にすることが大事なのです。

その視覚化や触覚化の重要性を、とうぜん「タンジブル・ビッツ」というインターフェイス概念を発明した石井教授は心得ています。

ビジュアル・シンキングはこうしたプロセスにおいて欠かせないものです。ビジュアルにして考える。さらにアイディアをプロトタイピングを通して実体化する、タンジブルにすることが重要です。アイディアを考えること、見ること、描くことは三位一体です。同じように、考えることと、モノをつくる、触れてみることも三位一体です。ビジュアル・シンキング、タンジブル・シンキングの方法論を常に使っています。

描きながら考える、作りながら考えるというのは、デザイン思考の方法の根幹にあるものだと僕は認識していますが、それはまさにここで言われているようなビジュアル・シンキング、タンジブル・シンキングにほかならないと思います。

思考が生い育つ原材料としてのイラスト、素描

このビジュアル化の重要性を知っていたのは、石井教授やIDEOだけではありません。いま読んでいるホルスト・ブレーデカンプの『モナドの窓』という本では、17-18世紀の数学者・哲学者であるライプニッツが思考と視覚表現の関係性を非常に重視していたことが指摘されています。
ライプニッツと言えば、二進法による普遍言語の追求や微積分法とその記法の発明が知られていますが、この本によればライプニッツは同時に芸術家の直観的判断力に対して、それ以上の期待をしていたことがわかります。

そして、そのライプニッツが先の石井教授やIDEOと同様に、思考をする際、非常にビジュアライズを重視していたのです。

ライプニッツは絶えず書きつづけ図を描いて、自分の考えを外に出し、目に見えるものとした。自分の素描の下手さをものともせず、試行錯誤する思考の確たるドキュメントを紙上に残した様のなんと恬淡としていることか、夥しい技術上の素描が証すところである。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

この本にはライプニッツの自筆のスケッチがいくつか掲載されていますが、そこにはまさに描くことで考えるライプニッツがいます。
決して「うまい」とも「ていねい」ともいえないライプニッツの素描は、その自由さにおいてこそ、それが思考と結びついていたのだという様が見てとれます。

それは単に思考を表現したものではなく、表現以前に思考をするための素材、材料なのです。

ライプニッツが一見イラストしたにすぎないようなものも、思考が生い育つ原材料の一部をなす。図解はアイデアの表現にとどまらず、決定的要素である。それはアイデアを展開する一撃であり、メディア(媒質)なのである。
ホルスト・ブレーデカンプ『モナドの窓』

「図解はアイデアの表現にとどまらず、決定的要素」。これはまさにプロトタイプを作る際の基本的な姿勢とも通じる話です。

捨てることを前提にしないでプロトタイプを作るつもりなら、それは思考の拒否

プロトタイプもまた表現ではなく、考えるための原材料です。

プロトタイプを作成する際の基本は、あとで使うことなんて考えてはならず、必ず作ったプロトタイプは捨てることを前提にするというものですが、まさにそれはプロトタイプが「原材料」であって、成果物ではないからです。それは「なぜ?」を代表する問いのミサイルによって破壊され、乗り越えられるべきアイデアです。思考の素材であるべきプロトタイプに対して、最初から「あとで使う」ことを期待するのはむしろ思考を拒否した態度だといえるでしょう。

思考するための材料あるいは燃料を何度も使うことをせずに、単純にモノとしてプロトタイプを作っているのであれば、それは作りながら考えていることにはなりません。それは極論すれば、作っているものを見てもいないし、触れて感じてもいないということになるのだと思います。目の前にあるものを見て触れて感じ、それに対して「なぜ?」を問う心を閉ざして、ただ自分の妄想を愛でているだけなのでしょう。
それはビジュアル化やタンジブル化の作業をしていても、ビジュアル・シンキングやタンジブル・シンキングではなく、ただの作業でしょう。

そうではなく、石井教授が言うように「アイディアを考えること、見ること、描くことが三位一体」「考えることと、モノをつくる、触れてみることが三位一体」になるような見方、触れ方、考え方ができるよう、心をオープンにし、自分の妄想が抱いた「当たり前」のイメージから逃れて思考する自分自身のやり方を各自が身につけることが必要なのでしょう。

それは「レシピ」にも「方程式」にもならないのですから。



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