人間の思考方法と情報の交通の速度や経済性について考える

デザイナーさんなどを中心にこんな風に考える人がたまにいます。

手で描きながら何かを考える方法って人間にとってはとても自然で本来的な思考の方法だ、と。



んー、果たして、そうなのでしょうか?

僕自身も、絵や図を描いたりしながら自分の考えを発展させ、まとめていく方法というのは、思考方法としてとても有効だし、誰もがそういう思考方法を身に着けておけばいいと思っています。
でも、それが「人間にとってとても自然で本来的な思考の方法」だとは考えません。

そう考える人はある基本的なことを忘れていると思うんです。
手で描いて考えるために不可欠な筆記具も紙も、残念ながら、いまのように誰でも気軽に利用できる代物ではなかった時代があったということを。
筆記具や紙という人工物がなければできない思考方法が、人間という生物にとって自然で本来的であるはずがないということを。

そう。昨日の「僕たちはいつも間違えてる、だから…」で「デザイン思考」が歴史的思考方法だと書いたのと同じです。
描きながら考えるという思考方法が「とても自然で本来的な思考の方法」なのではなく、歴史的に筆記具や紙という人工物をある程度日常的にも利用可能な環境が整って以降のそれらの使い方も含めた意味でのリテラシーであることなどの、僕ら人間を動かしているものに気づくことこそ、昨年以上にこれまで無意識のうちに信じてきた様々な既成観念が崩壊するであろう2012年に、「次」を考える上では大事な「問題提起力」には欠かせないことだと思うのです。

情報の交通の速度と経済性

自分の頭のなかにぼんやりとある/しかないイメージを、紙の上に描きながら考えるという方法は、一種のプロトタイピング的な思考方法です。ただ、それはすでに何度も書いているように、あくまで紙や筆記具のような道具を人間がある程度のレベルで日常的に利用できるようになってから、人間の思考方法になったにすぎません。

逆にいえば、紙や筆記具がないと思考できない僕たちは、そうしたデザイン的な思考方法に囚われているのだともいえます。そして、それは紙や筆記具をもたずとも、モバイルツールがあれば思考できてしまう人のようには思考できないという足かせでもあるはずです。
そんな道具と思考の関係を意識しなければ、その足かせから自由になることもできません。

今のように気軽に使える紙が存在しない世界を想像してみましょう。

たとえば、竹簡の上でまともにアイデアスケッチはできるでしょうか。
パピルスなんて高価で貴重すぎて、とても頭のなかの思いを絵や図に描いてアイデアを整理するなんてことに使えなかったのではないでしょうか。

紙という手軽に使えるメディアが存在しなければ、頭のなかのイメージを視覚的な情報へと変換させることができず、紙のうえの情報を手で様々に編集しながら、頭と紙のあいだでいろんな情報を交通させることで思考することもむずかしいのです。
紙の上で描きながら思考すること自体の頻度が減りつつあるいまだからこそ、僕らはもう一度、そうしたことをきちんと想像してみないといけません。

それが情報の交通の問題であり、その交通の速度や手軽さなどの経済性の問題であるということに焦点をあてて。

紙と道路がローマ帝国の形成と帝国内での機能の専門分化を実現させた

そして、それが単に個々人のなかでの情報の交通の問題ではなく、社会的な意味での情報の交通の問題であったということも知っておくべきでしょう。

マクルーハンは「社会集団の変化とか新しい共同体の形成とかは、紙による伝達と道路による輸送とによって情報の移動の速さが増したときに起こる」と『メディア論―人間の拡張の諸相』のなかで記しています。

その歴史的な例のひとつとしてマクルーハンは「ローマ帝国の形成とそれに先行したギリシアの都市国家群の崩壊」の例をあげています。アルファベットで記された書き言葉をより速く遠くに伝えられるようにした、パピルスと車がより速く走れる道路の建設がローマ帝国の形成を可能にしたとマクルーハンは指摘しています。

村や都市国家は、本質的に、あらゆる人間の必要と機能を包括する形態である。速度が大きくなり、それによって離れたところからでも軍事を統率することができるようになると、都市国家は崩壊した。かつては包括的で自己充足的であった都市国家の必要と機能が帝国の専門分化の活動となって拡張された。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

ここで記された都市国家の崩壊からローマ帝国内での機能の専門分化の実現においてキーとなっている、情報の交通速度の加速という事態は、まさにいま僕らが経験していることと同様のものだといえます。

インターネットが実現した検索とソーシャルメディアによる情報流通の爆発的な加速は、従来の知や専門分野の価値の再編成を迫っています。かつては専門家しか入手がむずかしかった知識も誰もが簡単に検索して入手でき、かつ、それを他人にシェアすることもできます。まとめサイトはごくごく普通の人をなんらかの分野に強い専門家として見せてくれるのを助けてくれ、世の中には無数の細分化した専門家、アドバイザー、コンサルタントがあふれかえった状況を生んでいます。

その変化は、あきらかにインターネット上に次々に登場してくる「情報の交通」の速度と経済性を変化させるツールの賜物だといえると思いますが、それと同様のことがローマ帝国の形成を可能にしたと同時に、従来のギリシアの都市国家を崩壊させたのです。

情報の交通の停止が帝国を衰退させ、知を独占する中世を開始させた

ただし、パピルスの供給をエジプトに頼っていたローマは、その後、イスラム教徒によってエジプトを失い、パピルスの供給が経たれました。パピルスの供給が経たれたローマでは、パピルスに乗せる形で情報を運ぶルートであった道路での車の往来も止まったといいます。そして、道路での車の往来が止まったことで、道路を移動していた軍隊の往来もなくなり、軍隊組織の滅亡と軍とともにあった官僚制度の滅亡を招きました。

軍事力がローマという中心から周縁に向かって征服を行うと同時に、紙とともに情報を運び、教育や商業も「中心―周縁」の関係性のなかで交通させ交流したのとは反対に、ローマ帝国が衰亡した中世においては、寺院の僧侶集団が知識を紙に書かれた写本とともに独占しようとした。これに対して、知識を外に向かう征服や支配に応用したいプトレマイオス二世のような帝国権力が「知はいかにして「再発明」されたか/イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン」でも紹介したような一大勢力としての図書館を建設させ、膨大な数の文官や書記を専門の仕事に携わらせたのですが、いずれにせよ、中世においては情報は内と外のあいだで流通するよりも、一部の権力によって内的に独占される傾向があったのです。

照合し、翻訳し、組み立てるというのが、アレクサンドリアで最初に確立された学問の形だった。図書館では、文書を集めるだけでなく、集めたものを照合し、編集して、稿本を写し、内容を組み立て直し、注釈をつけて分析する作業が行われた。
イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』

ここに引用したように、アレクサンドリア図書館という閉じた知的空間でこそ、最初の「手で描きながら考える」という思考方法は生まれたのでしょう。

なぜ「情報の交通」の速度と経済性が加速している現代において経済危機が生じているのか

ただ、こうした一部権力による知の独占は、個人において紙に描くことによる情報の交通の活性化がアイデアの創出を生むのと同じように、情報の交通の活性化によって発展していたローマの商業と教育の力を、根本から削いでしまうことになったのです。

パピルスは戻ってこなかった。ビザンチウムは中世各地の中心と同じく羊皮紙に大きく依存していたが、これはあまりに値が張り、品薄であったから、商業あるいは教育を促進することがなかった。中国産の紙が近東を経てヨーロッパに次第に浸透してきて、11世紀から教育と商業に着実に速度をつけ、「12世紀のルネッサンス」の基礎を用意した。印刷物を普及させ、ついに15世紀には活版印刷を可能にするにいたった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

「情報の交通」の速度と経済性が失われると、社会における商業や教育の力は失われるのです。逆に「情報の交通」の速度と経済性が高まると、社会においては商業や教育が活性化するはずです。

それなのに、なぜ、この「情報の交通」の速度と経済性がこの上なく加速されている現代において、世界のあちこちで経済危機が囁かれ、この国においては教育などの側面でも停滞した状況がみられるのでしょう?

はっきした答えはわかりませんが、この記事を書きながら、それは紙とその流通を可能にする様々なしくみ(書籍、出版、郵便、FAXなどなど)によって成り立っていた昔ながらの思考方法である「手で描きながら考えること」を「人間の本来的な思考方法だ」などと勘違いしてしがみついていることと無縁ではないのかもしれないのでは?と考えたりしています。
インターネットの検索やソーシャルメディアを通じて、一部による知の独占が解かれ、従来の専門分化のカテゴリーでは意味をなさなくなってきた世界で、いまだ「手で描きながら考える」という旧来の思考方法、あるいは、「発明の方法を受け継いで…」で紹介したような「生産工程の個々の段階を、まるで探偵小説を書くように逆に計画してゆく生産方式」などにしがみついて、いまの環境に対応した思考方法や生産方式を生み出せていないことに問題があるのではないかと。

僕らは、いまこそ、自分たちが従来使っていた古い思考方法や生産方式、富を生む仕組みがいったいどんなメディアの影響をどのようぬ受けて、思考や生産、富の産出を可能にしていたのかを見直すことで、いま世界を包み込んだ新たな環境にあった新しい思考方法や生産方式、富を生む仕組みを創出する努力をしていく必要があるのではないでしょうか。

 

関連エントリー