2012年01月06日

僕たちはいつも間違えてる、だから…

失礼ながら、年末の挨拶も書かないまま、新年に突入した当ブログ。昨日から仕事のほうでも通常営業がはじまったので、こちらでも気合いを入れ直していこうと思いました。
きわめて不定期に、大して裏取りもせずに思いつきをしたためている当ブログではありますが、読んでいただいているみなさんに興味をもってもらえる記事を書いていこうといつも思っておりますので、2012年もぜひ DESIGN IT! w/LOVE をよろしくお願いいたします。
ついでに会社のほうで担当しているブログ「市場のお手入れ」のほうもよろしければご覧ください。ペルソナやエスノグラフィーなどの人間中心設計、デザイン思考関連の記事はそちらのほうで書いておりますので。



というわけで、ご挨拶は簡単に終わらせていただいて、本題。

今年の年末年始はいつにも増してのんびりと楽しく過ごさせていただいたのですが、そんなある日のよく晴れた昼間の散歩中にふと思い至ったのが、僕自身が何かを考えるときの基本姿勢としてタイトルにもした「僕たちはいつも間違えてる」ということを前提にしているということでした。
これは何も他の人が間違った見方や勘違いした見方をしてるのを非難するとかいう話ではなく、僕自身も含めて人はそもそもこの世の中で起こる出来事、世界に存在するあらゆるものを把握し理解するためには、間違えなくては把握も理解もできないと考えているからです。

なぜ「僕たちはいつも間違えてる」ということを前提するのか? ダイジェスト

どういうことかというと、まずはダイジェスト。

  • 抽象化による理解は間違えを前提とする 人は世界をありのまま把握するということができないので、必ず五感で受け取った情報の大部分を捨て去ってごく一部を残す形で抽象化してはじめて意味ある形で世界を理解できるようになる。その意味では人は理解するためにまず抽象化によって間違えるのであり、大部分を間違えることで一部の正しさを手に入れているということができる。であれば、「どう間違えるか?」が重要ではないかと思う。
  • 抽象化に用いる方法は本人もコントロールしきれない とはいえ、意図的に間違った抽象化を行うことで世界を理解できる形にするといっても、その抽象化による理解を人は必ずしもすべて自分の意志のコントロール下で行なっているわけではない。1つ前の「発明の方法を受け継いで…」でも考えたように人は自分でも知らず知らずのうちに常に方法を使っているのであり、その方法によって、ここで問題にしている抽象化の仕方は変わる。であれば、先に重要であるといった「どう間違えるか?」に関しても、すべて本人でさえコントロール可能ではないことを理解しておく必要がある。
  • メディアが人間の抽象化の方法に影響を与える では、本人でさえ、自分の抽象化作業によって感じている世界の何を切り捨て、何を残すかをすべてコントロールできるわけではないとすると、何が人間の抽象化作業=世界認識に影響を与えているのか、価値観の形成に影響を与えているのかを知っておく必要がある。その際、僕が念頭に置くのはマクルーハンの「すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである」という言葉。昨日会社のほうのブログに買いた「Webサービスとペルソナ(中編)」でも扱ったけど、このメディア=人工物と、人間の世界認識の関係を理解しておくことが必要ではないかと思っている。
  • 「問題設定力」がこれからのテーマ なぜ、こういうことを今更ながら思ったかというと、昨年以上にいろんなことが起こって、これまでの思考や価値観では閉塞感満載になりそうな今年、求められるのは既成観念にとらわれない「問題設定力」だなと思っているから。これまでの観念をこれまでの思考や価値観で疑っても、それは単なる親近憎悪でしかないので、そうではなく疑うことで新しい思考や価値観が再構成されるような疑い方が求められていて、それが今後必要な「問題設定力」だと思うのだけれど、それには、これまで以上にどんなメディアが人間のどんな世界認識や価値観に影響を与えたのかを歴史的な視点で理解しなおすことが「問題設定力」を高めるための基礎知識になるだろう。

と、まあ、こんな風なことを前提に考えているのです。

当たり前を疑うことの先に新しいパラダイムへの入口はある

ということを前提としているので、基本的にはどんな考えも絶対ではないし、むしろ当たり前だと思って見過ごしていることほど、自分で感じたものではないと疑ってかかる必要があると思っているのです。
そして、何が自分自身の認知や理解、思考や行動に影響を与えているのか、何の影響を受けたものを自分が当たり前なこととして無意識に受け入れてしまっているのかを常にあらためて明らかにしていこうとする姿勢が大事だと考えているわけです。

ましてや、いまのように何が正しいのかわからない世の中で、不安に駆られて正解やみんなと同じ意見を求めておどおどするよりも、何が正解がわからなくなった今だからこそ、なぜほんのすこし前まで正解があると思えたのか、いろんなシステムがまともに動いているように思えたのかを考える方が大事なことなんじゃないかと思っているのです。

そして、当たり前だと思っているものが何によって当たり前と思えてしまっているかと歴史的な視点をもって疑ってかかることの先にこそ、はじめて新しいパラダイムは開けてくると思うのです。

「メディアはメッセージである」というのは、電子工学の時代を考えると、完全に新しい環境が生み出されたということを意味している。この新しい環境の「内容」は工業の時代の古い機械化された環境である。新しい環境は古い環境を根本的に加工しなおす。それはテレビが映画を根本的に加工しなおしているのと同じだ。なぜなら、テレビの「内容」は映画だからだ。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

そう。ここでマクルーハンが指摘しているように、僕らはメディアによって新しい環境に移行してもしばらくは、古い「当たり前」に縛られた頭で世界を古い時代のままに見てしまいます。僕らは古いメディアに縛られた方法を使った世界認識や考え方や行動の仕方を無意識に使ってしまっており、それが当たり前になってしまっているからこそ、新しい環境が整っても相変わらず古いメディアがもたらしたものと同じ「内容」を新しい環境にも求めてしまうのです。
モノや情報を私有するのではなくソーシャルに扱う時代を迎えてもなお、個人や私企業がそれらをパーソナルに扱い、所有し、コントロールできると勘違いし、プライバシーや企業秘密にこだわる感覚のもそうした事態の一例でしょう。

でも、新しい生き方、感じ方、行動の仕方は、古いパラダイムの「当たり前」を抜け出し、新たな環境の「メッセージ」を理解することしかはじまりません。自分たちの考え方が古いメディアに影響されていることを自覚することが前提となります。

そう。古いメディアによって抽象化して見ている世界の見方のどこが間違えているのかということの自覚が…。

何が僕らのデザイン思考を可能にし、何が僕らのいまのライフスタイルを可能にしたのかと疑うこと

それには、これまで以上にどんなメディアが人間のどんな世界認識や価値観に影響を与えたのかを歴史的な視点で理解しなおすことが「問題設定力」を高めるための基礎知識になるのだと思うのです。

画一的、連続的で、限りなく反復可能な小単位なるものはグーテンベルク印刷技術上の事実であるが、それがまた微積分という関連概念を吹き込んだ。それによって、いかなる捉えがたい空間も、まっすぐで、平らで、画一的で、「合理的」なものに移し変えることが可能となった。この無限という概念は、論理によってわれわれに押しつけられたものではない。それは、グーテンベルクの贈り物であった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

定価や定義、標準化や正解といった画一化を求めるもの、それはこれまでもこのブログではたびたび書いてきたように、同じ商品を大量に存在し個々人による所有を可能にするマスプロダクションの走りとしての印刷物というメディアに端を発しています。印刷以前の話し言葉はもちろん、手書きの写本でさえも定価や正解といった、同じものを個々人が所有できることを前提とした思考様式やライフスタイルを可能にする環境を準備できませんでした。

そして、画一的な同一なものを視覚的に反復可能になってこそ、デザイン思考も可能になったのです。
グリッドが敷かれた画一的な平面の上で、誰もが望めば利用可能なさまざまな視覚的要素をグラフィカルに構成しながら行なう試行(プロトタイピング)により、いろんな問題が視覚的に思考できるようになったことを理解することで、僕らは無意識に当たり前に行なっている自分の普段の思考スタイルを反省したほうがよいはずです。印刷革命によって可能となったデザイン的な思考スタイルがその後の生活スタイルを大きく変えていったことを意識し、それが何によって可能になったかを理解しなおすことが、次の一歩を踏み出すためには必要なことでしょう。

例えば、食事用に使われていた2本のナイフのうちの1本の歯が「食べやすさ」を改善するために2つに割れ、最終的には4本に定着していく過程でのデザインの試みが可能になったのも、16世紀の後半のOxford English Dictionaryに英語としてdesignという単語が初出した時期に重なることは、僕が『フォークの歯はなぜ四本になったか』の「解説」にも書いたとおりです。

ここに構想(デザイン)という考え方が登場する。Oxford English Dictionaryに英語としてdesignという単語が初出するのは一五九三年である。フォークはそんなルネサンスの文化の雰囲気のなかで登場し各国で使われるようになったのだ。それは単なる偶然の一致ではない。
『フォークの歯はなぜ四本になったか』「解説 失敗の発明」より

僕らは現在自分たちが暮らしのなかで感じている不満や不便さを、デザイン(特に利用する物理的な道具のデザイン)によって改善しようとする発想を当たり前のことのように感じています。しかし、それはそもそもモノ自体がマスプロダクション技術によって同じ商品を大量に生産し流通させ、多くの人に所有に可能にする環境や、また同じ思考やアイデアを容易に他の人物に伝えたり、自分でも繰り返し視覚的に思考できるようにする環境が整った上でのことであることを忘れています。
そうした環境が整うグーテンベルク以前の世界では、フォークの歯が4本に分かれていくことはなく、いつまでも料理を食べづらく、口を切る危険性もあるナイフ2本での食事を、道具の変更によってよりよいものにしようという改善の発想は決して当たり前のものではなかったのです。

現代人にとってはデザイン思考は当たり前の思考スタイル

ましてや、印刷どころか、紙の上で文字や図像を描くことも簡単なことではなかった、話し言葉の時代、筆記具や紙がかんたんに扱えるものではなかった時代においては、生活の改善を可能にするデザインなんていう思考スタイルが日常的であるはずなどはないのです。

似たようなことは、マクルーハンの盟友ともいえるウォルター・オングも『声の文化と文字の文化』のなかで「テクストによってかたちづくられた思考」として指摘しています。

たとえば、幾何学的な図形、抽象的なカテゴリーによる分類、形式論理的な推論手続き、定義、また、包括的な記述や、ことばによる自己分析さえもそうである。これらの項目はすべて、思考そのものではなく、テクストによってかたちづくられた思考に由来するのである。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

ここでオングによって「テクストによってかたちづくられた思考」と指摘されるものは、デザイン思考に限らず、僕ら現代人がごくごく普通に用いている思考方法です。そして、それはオングがいうように、テクスト以降の歴史性をもった思考の様式なのであって、人間は必ずそのように思考するわけではなく、むしろ、テキストというメディアに大きく影響を受けたスタイルでしかないのです。
そう。僕らはそのテクスト以降の思考スタイル、さらには印刷革命以降の思考スタイルを当たり前に使えるよう身につけたことで、その思考スタイルが可能にする抽象化の方向性の影響を受けて常に世界を間違って認識し、物事を間違えた解釈で理解するようになったのです。

僕らはここを勘違いしてはならないと思います。
デザイン思考なんて逆に現代ではまったく当たり前すぎて誰もが行なっているものであることをあらためて理解することも必要なのです。

デザイン思考というキーワードがあらためて意識されたのは、それこそ印刷革命の当たり前さとは異なる新しい環境が生まれつつあり、新しい環境が古い環境を根本的に加工しなおしはじめたことがおぼろげながら明らかになったことで、グーテンベルク以降続いた古い思考スタイルである「デザイン思考」が単に意識化されただけと見た方がよいのです。
つまり、そういう古くから続いたデザイン思考なるものを今更大げさにありがたがったり、それを身につけようなんて考えたりするのは、とんでもない時代遅れであって、むしろ、あのアプローチはOxford English Dictionaryにdesignというワードが登場しはじめた16世紀の終わりから20世紀に至るまでに人間が当たり前のように無意識で行なっていたアプローチをあらためて明示し、形式知化しただけのものと理解するほうが正しいのです。
そして、そういう環境を事前に歴史が用意してくれていたからこそ、「発明の方法を受け継いで…」で指摘したように、19世紀が「発明の方法」の発明の世紀として立ち上がることが可能になったのです。

自分がわかるイメージだけに逃げ込むな!

僕らはそんな歴史のなかで、自分たちの世界認識の間違え方を変化させているのです。
そう。僕たちはいつも間違えてる、だから…。

2012年、僕はこうした自分たちの認識や理解、思考や行動が何に影響を受けて、どんな風に偏ったスタイルで世界や物事に対峙してしまっているのかということを、これまで以上に明らかにできるよう、さまざまな方面に目を向けていこうと思います。

つまり、「方法」の自覚/反省です。方法が僕たちに常に間違えた世界認識を与え、僕たちを安心させている。そのことを常に意識した上で、その僕たちを誤らせる方法を自覚していくことが必要だと思うのです。

そして、このブログを通じて、みなさんに「自分がわかるイメージだけに逃げ込むな!」ということを伝えていきたい。わかりやすさや、自分が理解しやすいイメージというのは、幻想であり、その幻想を抜け出すためには答えのない世界で不安を感じながらもがくしかないということを知ってもらいたいから。わかっているなんてことはすこしも立派ではないことを知ってもらいたいから。

そんな風な僕のこれからの思考/試行を今年もこのブログに綴っていきます。
興味のある方はこれからも当ブログにご期待いただければ光栄です。

  

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posted by HIROKI tanahashi at 08:47| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする