発明の方法を受け継いで…

人が何かを行なう際に用いている「方法」に目を向けること。
僕は、そのことがUXやインタラクションなどのデザインに関わる人にとってはとても重要なことだと考えています。



というのも、簡単に言ってしまえば、個人やコミュニティが普段用いている「方法」を、それ以外の様々な人たちにも利用な「ツール」に翻訳し置き換えることがUXやインタラクションのデザインのミッションだと思うので。一部の人が使っている「方法」をより多くの人が気楽に使える「ツール」に置き換えることが1つのイノベーションの方法だろうと考えます。UXデザインやインタラクションのデザインに求められているのって、そういう点からイノベーションを可能にすることなんじゃないでしょうか? 逆にいえば、方法のツールへの翻訳を含まないUXデザイン、インタラクションデザインって何をデザインしているのか謎です。

方法をツールに翻訳するのならば、まずは翻訳の元となる方法をちゃんと捉えることが必要です。だって、元になるものが理解できていなければ、それを別のものに置き換えことなどできないはずだから。
というわけで、具体的な翻訳であるデザイン作業をはじめる前に先に、実際に人がどんな方法を使っているかをキャッチアップすることが必要。誰がどんな時にどんな理由で、その「方法」を使っているの? その「方法」を使うと具体的にはどんなアウトプットが生み出されるの? 別の「方法」を使った場合、アウトプットはどんな風に変化してしまうだろう? なんてことをあらかじめ把握しておかないと、それをツールに変換するデザインという活動を行うことはできません。

なので、人が何かを行なう際に用いている「方法」に目を向けることが大事だと考えるわけです。

人は必ずしも意識して「方法」を使っているわけではない

ただ、はっきり理解させておかなくてはいけないのは、ここで問題にしている「方法」は必ずしもそれを使っている人が自分で意識して使っているものではないということです。

僕はそもそも人間が何かしらの行動を行なう際にはほぼ必ずといっていいほど何かしらの方法を用いていると考えています。ほとんどの行動が方法なくしてはそもそも成り立たず、方法をもたなければ人間はほとんど動くことができないと思っています。
にもかかわらず、僕らが普段自分の用いている方法を意識しないのは、慣れ親しんだ方法自体が、自分自身でも何らかの方法を用いているとさえ気付かないような、意識下で用いられる方法だからです。実際、日常生活をおくる上ではそうした使っている本人さえ意識していない方法のほうが圧倒的に多いはずです。

そういう意味で、ここでいう「方法」というのはいわゆる暗黙知的なものだといっていいでしょう。

たとえば、そういう言葉にできない類いの「方法」の例としてわかりやすいのは、僕らが普段話している言葉における文法です。
普通に言葉を話すときって、基本的には話している言語の文法に従っているはずですが、では、その方法を説明できるかというと容易ではありません。でも、方法としての文法がないと、まともに話はできないことは想像できます。
あるいは1つ前のエントリー「デコボコの世界の分かれ目で何を想う?」で話題にしたアンケート調査などの定量的なデータの読み方にしても、同様です。実際普段から数値データの分析・解釈をやっている人でも、具体的に自分がどういう方法で数値データからさまざまな解釈を引き出しているかを、他人に説明しろといわれたらむずかしいはずです。

本人も気付かずに使っている暗黙知的情報を把握する

ただ、イノベーションにつながるUXデザインやインタラクションデザインを試みる人が対象にしたいのは、実はこうした本人でさえ言葉にできない「方法」のほうです。だって、すでに言葉として説明できるハウツーみたいなものであればツール化したところで、すこし効率的にできるようになるだけでしょうけど、一部の人のみが暗黙知的に用いている方法をツールに置き換えることが可能になれば、それまで多くの人にはまったくできなかったことが可能になることもあるのです。

その意味で、イノベーションにつながるデザインのために求められる「方法の把握」は必然的にその方法を用いている人さえ意識していない暗黙知的なものの把握になります。したがって、本人さえ意識していないことを把握するのですから、インタビューで質問するような調査方法では隠れた「方法」を明らかにすることはできません。そこで出番となるのが本人さえも意識していない行動を観察によって明らかにするエスノグラフィーのような調査手法というわけです。

発明の方法の19世紀

さて、「方法」といえば、20世紀初頭のイギリスの哲学者、数学者であり、バートランド・ラッセルとの共著『プリンキピア・マテマティカ』の著者として知られるアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、著書『科学と近代世界』のなかで「19世紀の最大の発明は発明の方法の発明だった」と言っています。そして、続けて、こんな風にも言っています。

われわれの時代を理解するためには鉄道、電信、ラジオ、紡績機、合成染料といった具体的な発明をことこまかく列記する必要は必ずしもない。われわれは方法それ自体に集中して注目すればよい。方法こそが古い文明の基礎をうがった真の新しい要素だったからである。
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド『科学と近代世界』

僕らの多くもその時代を生きた20世紀につながる19世紀という時代を考えるにあたって、ホワイトヘッドは鉄道やラジオなどの個々の具体的な発明に目を向ける必要はないというのです。
代わりに、そうした発明を可能にした「発明の方法」に注目するようホワイトヘッドは僕らを促します。様々な発明を可能にした「発明の方法」のほうがはるかに19世紀をそれまでと分つ特徴であるとホワイトヘッドはいうのです。
もちろん、その方法は僕らも受け継いでいて、まさに暗黙知的な知として知らず知らずのうちに使っているのです。

終点からはじめ、開始点にさかのぼっていく技術

そのホワイトヘッドが注目を促す「19世紀の発明の方法」について、マクルーハンはさらにこう述べています。

「われわれは方法それ自体に集中して注目すればよい」と主張するホワイトヘッドはまさに正しいことを主張していたのである。現代世界の諸特徴をつくりだしたものは経験を均質的な断片に分けるグーテンベルク的方法だった。

そう。それは19世紀以前に端を発する「グーテンベルク的方法」であり、それは均質な活字やフォントで印刷された書籍のページのように「経験を均質的な断片に分ける」ことで様々な思考や創作物の生成〜複製を可能にする方法の延長にあるものなのです。
ただ、マクルーハンはそれがすでにあった技術の延長上にあったというだけでなく、「これは均質的な断片を作り出すグーテンベルクの技術の中にすでに内在していた方法であったのだが、19世紀になってはじめて生産から消費活動にいたるまでひろく社会のなかに浸透したのだった」とも言っています。

それは「均質的な断片に分けた経験」を再構成し編集しなおす方法を人が学ぶために必要な時間だったのでしょう。
そのあたりは「アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育/バーバラ・M・スタフォード」で書評を書いたスタフォードの本のなかでも詳しく論じられています。
それは「人を魅了する見かけが、コミュニケーションの仕掛けをわかりやすくするとともに、大衆を欺く」でも書いたように、視覚的な雄弁さを、誰もが利用可能な辞書的=カタログ的な要素に置き換えることで知のアーカイブ性、ポータビリティ、パーソナル化&ユニバーサル化を進めた、表現「方法」の精錬の時間だったのです。

そして、そうした方法的洗練の時間を経て、可能になった19世紀の「発明の方法」とはどういう方法だったのかというと、マクルーハンはこう書いています。

だがこの方法がいかなる操作であれ、一連の操作の終点からはじめる技術であり、そこから開始点へと逆にさかのぼって作業を進める技術であることには間違いない。

終点からはじめる。それは僕らが日常的にも用いている、あの「目標を明らかにする」ことからはじめる、あの方法です。
最初にゴールを決めて、それを達成するために、どうするかをまさに「開始点へと逆にさかのぼって作業を進め」ていく、あの考える方法のことです。

探偵小説を書くように、終点から遡られるユーザー価値

僕らはそれを「計画」と呼んだりします。それは小説のなかで謎をとく探偵が仮説を逆向きに組み立てながら、もっとも説得力のある真相を後ろ向きに組み立てていくように。

計画生産とは生産工程の個々の段階を、まるで探偵小説を書くように逆に計画してゆく生産方式を意味する。商品の最初の大量生産時代、さらには読者市場へむけての商品としての文学の大量生産時代に入ると、消費者の経験を研究することが必要になった。要するに、なにも作らない前から、芸術や文学の「効果」を調査することが必要となったのである。

そう。そして、その時、発明は、新しい画期的な商品の企画には、逆にさかのぼられる「消費者の経験」が必要な研究として立ち上がったのです。実際に商品を作る前から「効果」であるユーザー価値やより良いユーザー体験を想像するために。

ユーザーを最初から制作の過程に組み込む方法を生み出したのは、ポー

僕が専門とする人間中心設計プロセスやデザイン思考では、デザインのプロセスに最初からユーザーを組み込んでおくことが求められます。それはいま述べたように19世紀以来の「発明の方法」が「作らない前から効果を調査することが必要となった」流れを汲んでいるからでしょう。
それは僕らが無意識に用いている「方法」だといえます。

そして、その方法は推理小説家のエドガー・アラン・ポーによっても洗練された方法なのでしょう。

ポーは作品を読者にむけて書くかわりに、読者を作品のなかに組み入れる必要を見てとったのである。これが彼の「構成の哲学」に盛られた計画であった。

「読者を作品のなかに組み入れる」。これは僕がHCDの必要性を説く際に使う「ユーザーも含めてシステム」という考え方の元になるものだと思います。

ポーは効果の予測が創作過程を有機的にコントロールする唯一の方法であるとみてとったのである。

それは有機的にコントロールする唯一の方法であると同時に、発明のための唯一の方法だったのだと思います。
僕らはすでに当たり前すぎて、それが方法であることさえ忘れてしまっていますが、効果を期待するというのは、発明のためのたったひとつの方法なのです。

そして、発明の方法だけでなく、多くの方法が方法であることを忘れている僕ら自身のために、哲学者のジョルジョ・アガンベンの次のような言葉を結びに代えておきます。

一般に思われているのとは逆に、実のところ方法というのは、それがもちいられている文脈から完全に切り離すことができないという不可能性を、論理と共有している。あらゆる分野で有効な方法というものは、ちょうどその対象を捨象できる論理が存在しないのと同じように、存在しないのである。
ジョルジョ・アガンベン『事物のしるし 方法について』


  

関連エントリー