デコボコの世界の分かれ目で何を想う?

世の中には結構な数で定量的な調査の集計データが読めない人がいます。アンケート調査でもそうだし、アクセスログ解析データでもそうでしょう。

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量的な調査データを読めないのって、結局ものごとが隆起するさまを編集的に読むことがそもそも苦手ということなんだろうと思います。
つまり、頭の中でものごとを解釈して意味を生成するには、差異という「分かれ目」を分かることがまず求められているということを知らないのではないか、と。

だから、まず意味を理解するには、数を比較することが必要であることがわからないのでしょう。

数という触覚的情報

そもそも数というのは、触覚的で体感的な情報です。

印刷革命によってか視覚偏重と化しフラット化した世界のなかでふたたび擬似的に触覚的な感覚を持ち込んでいるのが数字です。

財布の重さはまさに金額という数字によって体感されます。
おなじように、グラフのデコボコは、触れて感じられるテクスチャーのデコボコだったり、隆起する坂道だったりします。あるいは、熱さ冷たさのような温度の違いだったり、重さ軽さのような身体にのしかかる重みだったりするでしょう。

そうした触覚的、体感的な数を比較して意味を感じられないというのは、そもそもの身体が体感的な意味の解釈能力を欠いているということなではないかと思います。あるいは体感の問題ではなく、何かのデコボコと差異を感じても、それを意味として理解する根本的な解釈力に欠けるか。

デコボコしたインターフェイス

世界には様々なデコボコがあります。デコとボコの境界で世界は分かれています。

そうしたものごとの分かれ目に目を向けることが、世界を解釈し意味を読み解くための行動の起点です。デコボコの差異に意味を読み解けないなら、分けることは分かることにつながらない。比較した両者の差異に意味を見出すこととは、そうしたデコボコの意味を読み解くことです。

人は様々な分かれ目に満ちあふれた世界のなかを歩み進んでいます。階段の段差、屋外と屋内の気温差、日影と日向の境界、自分自身や他人の身体の輪郭、器の黒と布の赤、昼と夜、今日と明日、好意と嫌悪…。
そうした身体や頭で境を渡るその分かれ目こそが本来のインターフェイスです。デコボコした均一ではない世界のインターフェイスを様々な差異として感じ、解釈しながら人は世界と関わっていく。そこには誰かが名付けたテキストの表題などはついていなくていいし、すべてがボタンやプルダウンメニューのような形状ではなく、多様なデコボコとして表現されていればよいはずです。

世界の意味を肌で感じて

データを読めないというのは、そもそも、そんな風に世界のデコボコの意味を自分で解釈するクセがついていないのではないでしょうか?

季節の変わり目を感じて、その感じたものに従い、みずからの行動を起こす。一つ前に書いた予測の話にもここでつながります。予測が立ち上がるためには、世界のデコボコを感じて、そこに意味の芽生えを感じないといけません。その意味こそが予測であり、行動のリソースでしょう。

カレンダーに従い、年末やクリスマスに思いを馳せるばかりではなく、日々の空気の冷たさや光の加減、草木の様の織り成すインターフェイスに意味を読み解きたいものです。

 

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