管理と自由

昨夜の「「私にしかできない仕事というのは組織では幻想」というのは幻想」というエントリーにいただいたコメントの中で、「それを幻想としなければ生産管理が難しくなる」だったり、「第一 そんな仕事ばっかの企業って企業として成り立たない」といったコメントをいただきました。
おっしゃりたいことはわからなくもないのですが、ちょっとそれは企業だとか、経営だとかを悲観的にみすぎなのではないだろうかと感じました。本当に企業がそんな風にしか活動できないとすると、ちょっと未来が感じられません。
しかし、別にちょっとくらい個の自由を認めたくらいで、生産管理やその他の面で企業が困ることなんてありません。実際、そういう会社で働いてますから、それは断言できます。それにすべてが自由だというわけでも、昨日もアウトプット要求とサービス要求の分類で説明したように、すべての人が「私にしかできない仕事」をするなんてことを想定していませんから、そういう面でも従業員には選択肢があるわけです。

個を活かす企業文化

さて、企業なんて経営次第で如何様にも強くなれるものだと感じています。
じっくりと確かな企業文化の基盤づくりからはじめれば共通の企業文化と基盤となるプロセスを共有した上で、個を活かすくらいの自由さを個人に与えるくらいは決して不可能ではないし、それで生産管理がむずかしくなることも、ましてや企業として成り立たないことなんてありません。
それこそ、必要以上の管理が必要だったり、個人の自由裁量も認められない企業こそ、逆に確固たる基盤がないゆえに、表面的な縛りで小さな個の自由を奪ってしまったりするんじゃないでしょうか?

そして、そもそも「私にしかできない仕事」というものが自体が何もそこまで大げさなものではなく、むしろ、ちょっとした気遣いだったり、ほんの些細な工夫や努力から生まれるもので、俺はビッグになってやるなんて勘違いして、まわりを省みず自分だけ目立とうとすることとはまったく違います。
自分が自分にしかできない仕事をしようと思ったら、まずは他人のそれを認めてあげることが何よりも大切で、ただ単に我をはっているだけの人や、他人の意見を聞けば否定の言葉しか見出せない人にはしょせん組織の中で「私にしかできない仕事」をすることなんて不可能です。むしろ、まわりの意見や考えを自分の中に受けいれた上で、それを包み込むように自分の色をかぶせていく。

そんな大きなゆとりがなければ「私にしかできない仕事」を望んだところで、しょせん他人と変わらない仕事を割り当てられるだけです。芥子粒みたいな小さな了見しか持っておらず、他人の意見を飲み込むことさえできないような人では、組織に価値をもたらす仕事を生み出すことも、他人の仕事を輝かせることもむずかしいのではないかと思います。
そして、組織の側からみれば、そうした他人の仕事や言動に敬意をもって接しられる人を育める文化が築けるかどうかが、個を活かす組織づくりのポイントなのではないでしょうか? たがいにいがみあって、我先に出世を争うような組織ではもしかすると個を活かす文化は生まれにくいのかもしれません。

そして、もう1つ付け加えるなら「私にしかできない仕事」ができる職場って、実は働きやすいので退職率は減るもんだと思います。なので、誰かが「私にしかできない仕事」をしてても困ることが少なくなるんじゃないでしょうか? まぁ、何度もいうようですが、僕が「私にしかできない仕事」として想定しているのは、アウトプット要求とサービス要求で区別した場合の、サービス要求でも上のほうのサービスなので、たとえ、それがなくなっても企業としても困らないし、お客さんの側も「あの人がいなくなって残念ね」という部分の仕事ですし。そこを間違えて、アウトプット要求の部分まで「私にしかできない仕事」にしてしまったら、それこそ企業は成り立たないでしょう。ここは誤解してはダメです。

管理と自由

一方で、そもそもすべてを管理しようということにも無理があります。しょせん、企業がそこに働く従業員のすべてを管理することなど不可能でしょう。それなら、むしろ、最初から管理して価値が向上するところ以外は、管理をするよりも従業員の自由にまかせて各自が自分の能力を発揮できるような仕組みをくんだほうがよいのではないでしょうか?

そんなことを考えさせたのは、昔読んだ東浩紀さんの以下のような文の記憶があったからです。

テロ対策がよい例である。現代社会は、テロを防ぐためにテロリストの価値観を変えようとしない。現代社会は、その代わりに、テロを物理的に不可能にするインフラの整備を進めている。テロリストが飛行機に乗れなければ、資金がなければ、相互の連絡がとれなければ、テロを起こすのはきわめて難しくなる。そのために私たちは、いま、パスポートにバイオメトリクスが導入され(ヒトの移動の管理)、テロ資金供与防止条約(資本の移動の管理)やサイバー犯罪条約(情報の移動の管理)を相次いで整備している。そこに見られるのは、テロリストに法を説くのは無意味だから、彼らの行動はアーキテクチャ(インフラ)で抑え込むほかない、という固い決意である。

価値観を無理やり変えようとするのではなく、別の部分で管理を可能にする。そうやって本当の危機を有効に管理しようというのが現在のテロ対策であるようです。
もちろん、ここで僕が言いたいのは企業においても同じような管理を行えという意味ではありません。管理は管理可能な部分を定めた上で管理を行わないと、無意味に管理される側のストレスを生むだけで、ほとんど誰も得るものはないだろうということです。

東さんはそのあとにこんな風にも書いています。

それに対する筆者の答えは、情報社会は、私たちをコミュニティ=人間的主体のレベルでは自由にするが、アーキテクチャ=動物的身体のレベルでは不自由にする、というものである。21世紀においては、私たちは、かつてなく自由なコミュニケーションを享受しながら、同時にいつのまにか強力な管理のなかに捉えられている、そのような矛盾にあちこちで遭遇することになるだろう。

動物的-人間的という二層構造はここ数年の東さんの主要な思考モデルの1つですね。このあたりはこれからの企業、そして、企業を取り巻く社会との関係を考えていく上で参考になるものだろうと思っています。
僕自身、まだまだ考えがまとまらず、読んでくれる皆さんの誤解を生じるようなことを書いてしまうことがあるかもしれませんけど、先の「「私にしかできない仕事というのは組織では幻想」というのは幻想」のコメントに、Yoshikawa さんが「やはり議論というか意見のキャッチボールは重要ですね」と書いてくれたように、「個を活かす組織」内で行われるような建設的な意見の交換ができればと思っています。
それこそ今泉さんが「未来の企業が少し見えた」が書いていたような姿なのですし。

 

この記事へのコメント

  • hal*

    ブログ「シリアルイノベーション」経由で先日から拝見しています。

    「私にしか出来ない仕事」と聞いて思い出したのは高級ホテルのリッツカールトンです。とは言っても私は行った事なくて「板倉雄一郎さんのコラム」でエピソードを読んだだけなのですが、リッツは常に従業員に個人の判断を求め、そこに発揮された個性を評価する企業なのだそうです。
    それと対称的に思い起こされたのは、マックの笑顔¥0。もちろん、笑顔にかかるコストが¥0な分けはなくてそれはしっかり価格に反映されているはずなのですが、そのように表現してしまうところにマクドナルドという企業の精神が表れているように思います。そのユーモアセンスにちょっとした微笑ましさはありつつも、実際笑顔を提供する当の本人達からすれば気持ちの良い表現ではないでしょう。
    そうしてあれやこれやと考えていると、「個人のちょっとした個性の発揮される部分を組織がどのように認知し、どのような個性をどう評価するか」その積み重ねが結局は企業の個性となり顧客に認知され、社会に評価されるのだと思いました。

    日本では「ブルーワーカーとして幸せな人生を過ごす事が出来る」という価値観を持つ人は多くありません。幼い頃から夢を持てと言われ生きがいを感じる仕事に就くことこそが幸せだと教わります。「私にしか出来ない仕事」を求めるのも無理はありません。
    逆に言えば顧客としての日本社会全体というものも、まだまだ「あなたにしかできない仕事」を求め、評価する社会であるように思います。

    個人の価値、企業の価値とは…と考えていたら色即是空な気分になってきました。しかしアウトプット要求とサービス要求という区別は非常に明快で大変参考になりました。これからもエントリー楽しみにしています。
    2006年09月20日 16:45
  • tanahashi

    hal*さん、コメントありがとうございます。

    日本社会全体が「あなたにしかできない仕事」を求め、評価する社会というのは意識したことがなかったです。
    でも、そうなのかもしれませんね。
    2006年09月21日 01:29

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