2011年11月30日

「書く」ことの終わりに

気持ちはわかります。でも…。

私たちのキャリア形成において、「ブログ」の重要性ほど見過ごされているものは無いように思います。
ブログを書くことは、人ひとりのキャリアを大きく左右しうるものであり、今後時代が進めば、「ブログくらい書けないと社会人としてヤバい」時代が訪れるとさえ、私は思っています。

僕としても、ブログを書く人が「ブログくらい書けないと社会人としてヤバい」と言いたくなる気持ちはわかります。僕も気持ちとしては、そう考えたくなる面もあります。

でも、です。
でも、きっとそんな時代は訪れないでしょう。

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そう思えるのは単に過渡期だから、です。
だから、過渡期という短いスパンで見て、「ブログくらい書けないと社会人としてヤバい」と一部の人が思いたくなる時代が来るというのはアグリーなんですが、もうすこし長期的にみると本質的な変化はそこではなく、ブログを書けないとヤバイと「書く人」が思えてしまうような危機が別にあるのです。

そう。むしろ「文章を書く」ということ自体がいま危機に瀕しているからこそ、そう思えるのでしょう。
「文章を書く」ことの意味=価値が失われはじめているからこそ、「書く人」の気持ちに保守的な思いが働いて「書けないとヤバイ」なんて反動が生じているのではないか、と。
(ようするに元の記事とはなんら関係のないことを書こうとしているので、元記事との関係性があると思って読みはじめた方はここで読むのをやめたほうが正解です。)

"I blog therefore I am."の背後にあるデカルト的思考

そもそも前述のリンク先ページのイメージ画像にある"I blog therefore I am."というデカルトの有名な文句をもじった言葉をもう一度見てみましょう。その言葉のもつデカルト的思考背景が、逆に「書くことの終わり」あるいは「書かれた同一の文章の終わり」を告げているようにさえ感じます。

そのことを考える上で、デカルト的思考が生まれた時代背景をあらためてみると良いのではないかと思います。

そもそもでいえば、デカルト的思考自体が、中世の写本の時代の終わりに印刷の時代とともに登場したものでした。
この思考の背景には、「同じ」と「違う」という概念が新しく意味をもつようになったということがあると僕は考えます。

僕らはもはやすっかりそのことを忘れているわけですが、実は、印刷によってはじめて「同じ」であることに意味=価値が認められるようになりました。それはまぎれもなく「同じ」ものを実現することがまさに印刷によって可能になったからです。

印刷本は史上初の大量生産物であったが、それと同時にやはり最初の均質にして反復可能なものでもあった。活字というばらばらなものを組み上げるこの組み立て工程こそが均質で、かつ化学実験が〔他者の手によっても〕再現可能なように再現可能な〔活字を崩しても再びそっくりそのままに組みこむことができる〕製品を可能にしたのである。

活字という「同じ」文字の組み合わせで作られる版によって「同じ」ものを大量に生産する印刷術。
それ以前の写本の時代ではそもそも存在することがなかったまったく同じ本が、印刷術によってはじめて可能になるのと同時に、「同じ」であることが意味=価値をもつようになり、意味をもった「同じ」という概念が登場することにより「違い」という概念も意味を持ちはじめます。

「同じ」と「違う」という概念の登場によって…

僕らは、この印刷をはじめとする大量生産技術以前には、そもそも同じものが世の中に2つ以上あるということ自体がなかったということを思い出すべきなのです。そして、大量生産された商品によって世の中に同じものが2つ以上あることが当たり前にならない限り、何かと何かが同じか違うかなんてことに人間が興味を示すことはないことを理解すべきです。

その同じ/違うの概念の登場が啓蒙時代〜ロマン主義の時代にいたると本物/偽物、オリジナル/コピーという概念を生み出し定着させるようになっていきます。
それと同時に言葉それぞれにも定義可能な固定された意味のようなものがあるように思われはじめたり、さまざまな疑問には明確に答えられる正解とそれ以外の誤解があるのが当たり前のように思われるようになってきます。

近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」」などの記事でも何度も紹介しているように、1660年にロンドンで設立された王立協会(正式名「自然知を促進するためのロンドン王立協会」)が舞台で声を通じて発話される台本として書かれているが故に、両義的・多義的な意味を含んだシェークスピア演劇を排斥し、言葉に対するあいまいなものを認めず、ひとつの言葉はひとつの意味をあらわせと「シンプル・イズ・ベスト」を目指し、普遍言語の試みとして、実質上の初代総裁であった数学者のジョン・ウィルキンズによって0と1とバイナリー(二進法)によって何でもあらわせるというアイデアが提出されるといった流れが生じたのも、言葉がつねに「同じ」状態であり、誰にでも「同じ」状態で共有可能になった印刷技術以降のことであることを僕らはしっかり認識しないといけません。

"I am."の成立

そんな変化の時代のはじめに囁かれたのがデカルトの"I think therefore I am."です。

前に「「個人」という古い発明品」という記事も書きましたが、個人という自己同一性もまた、印刷技術が「同じ」という概念を生んだことと無縁ではないと僕は考えています。
個人という自己同一性は、まさに印刷技術が版を繰り返し利用することで同じ本をいくつも生み出すのと同様に、個人という版を想定することで、昨日も明日も明後日も、そして、1年後も、何十年後も自分がいつも自分であり続け、それが社会的にも認められる前提を用意したのだと思います。

ところが、その個人も、版も、危機に瀕しているというのが僕の現状認識です。
版(version)の危機」という記事も書いていますが、いまや「印刷された同じ文章の終わり」の時代に至って、話し言葉同様に多様な文脈のなかで、ことばは現れては消えるものに戻ろうとしているように思います。

ソーシャルメディアの流れるタイムラインしかり、Siriに代表される音声着認識技術しかり、ことばはますます「書く」ことから離れ、「同じ」か「違う」かを識別することがむずかしく、かつ、そんぽ識別をする意味が失われつつあるように感じています。

世の中では、ゆとり世代の人びとが、まわりといっしょであることを望んだり、正しい答えやマニュアルや定義のようなものを求める傾向があるといったことが語られたりしますが、これも印刷された言葉が生み出した「同じ」という概念が危機に瀕していることの反動だったりするのではないでしょうか?

そんな時代だからこそ、「書く」ことによる自己表現というブログの役割を疑ってかかってみるほうが、より大きな視野で現在の変化をみることができるのではないか?と思った次第です。

 

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posted by HIROKI tanahashi at 21:42| 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする