「分ける」ことには様々なリスクも伴います。境界線を作るので形式化される際に抜け落ちることもあります。また原理主義にも陥りやすいです。その意味でモービルは「バウンダリースナイパー」の大切さを訴えたとも思っています。
何かを「分かる」ことは「分かる」ことの外部を見えなくすることでもあります。その場合の外部は、分かっていることの内部で理解された境界の両サイドにつくられた内外ではなく、文字通り、「分かる」ことが意識の外に追いやった外部です。
その意味において、ちささんがコメントしてくれたように、「分かる」ことで形式化されたクラスターの外部に出るためには、別のクラスターとの連結を可能にする要素が必要になります。
ピーター・モービルは『アンビエント・ファインダビリティ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅』の中で、ネットワークにおける人と人とのインタラクションを分析する尺度として、活動性、媒介性、近接性の3種類をあげた上で、次のように述べています。
これらの尺度は個人、組織、企業のいずれのレベルでも適用可能である。またこれらは、トポロジ最適化のためにコンピュータネットワークに適用したり、ファインダビリティ改善のために情報システムに適用することもできる。なぜなら、上記の例で言う「バウンダリースパナー」はたちまち、図書館やGoogle検索で探し出せるドキュメントになることがあるからだ。ピーター・モービル『アンビエント・ファインダビリティ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅』
バウンダリースパナーとは「境界連結者」と訳され、ネットワークにおいて異なるクラスター間をネットワーク的に結びつけるハブの役割をするノードを指します。
モービルは続けて、次のようにも述べます。
ノードは人でもコンテンツでもかまわないし、終端としても経路としても、データとしてもメタデータとしても機能しえる。記事や書籍やブログは単に目的地であるだけではない。時にそれらは、ユーザーを著者に引き寄せる逆引き参照としても機能するからである。何かを書くということは、ただその内容を伝達するためだけでなく、自分個人のファインダビリティを強化するためでもあるのだ。ピーター・モービル『アンビエント・ファインダビリティ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅』
還元主義的な要素と全体による理解においては、クラスターは確固な境界をもったものとして扱われがちです。しかし、ネットワークの観点から見れば境界はバウンダリースパナーの存在によって容易に乗り越え可能なものとなります。「分ける」ことはやはり「分かる」ことですが、バウンダリースパナーというリンクによって、常に外部の不確実性とつながるのではないかと思います。原因と結果の分析によりヒトは未来の予測を試みますが、それでも私たち自身の内にも存在する自然のワイルドさによって、私たちを再び外部の不確実性へと誘い出します。
予測による確実性は、つねに予測不可能な外部とリンクされていて、分かろうとする者の努力は終わることがありません。
しかし、中には自ら終わりを告げる人がいます。すべて分かったと告げることで終わりという境界に囲まれた安住の地に逃げこもうとするのでしょう。
どんなに逃げ隠れしようと、ネットワークのつながりが勝手な「終わり」の宣告を決して許してはくれないのでしょうけど。
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この記事へのコメント
tonosan
いつも深い理論を展開されていて、刺激になります。
エントリーを拝見して、「分ける」と「分かる」という言葉のネガとして、
「分けられない=分からない」という状態を考えました。
特に人間の感情は分からないものです。
でも、だからこそクラスターなど統計的手法を使って分析したい、
誰かの言っていることを理解したい、と思うのではないでしょうか。
また、知的好奇心は、分かる(分けられる)ものよりも、
分からない(分けられない)ものに向かうように思います。
>何かを「分かる」ことは「分かる」ことの外部を見えなくすることでもあります。
棚橋さんの今回のエントリーのなかでは、
この部分が最も重要であると感じています。
「分かった」と思った瞬間に、分からないものを意識から遮断し、
思考の終焉を招いているのかもしれません。
常に謙虚な姿勢を忘れずに、
分かろうとするひと、外部に開かれたひとで
ありたいと思いました。
tanahashi
ほんとにそうありたいですね。