(前略)ブライアン・グリーンが物理学に対して取った態度を促した世界観は、ジョン・ホーガン著『科学の終焉』にまざまざと描かれている。この本の中で彼は、今や基本的な事柄は全て明らかになっており、細部を埋める以外に我々に残されていることはないと論じた。実験科学者である私の同僚も、これには堪忍袋の緒が切れた。間違ってもいるし、完全に公正さも欠いているからだ。新たな事柄の探索は、それが実際に発見されるまでは無駄骨のように見える。そこに何があるのか分かっていたとしたら、それを探す必要などないのだ!ロバート・B・ラフリン『物理学の未来』
「新たな事柄の探索」が「それが実際に発見されるまでは無駄骨のように見える」のは、先のエントリー「俳句の有限性と自己組織化するWeb」でも引用した弾さんの好エントリーにも示されているとおりであり、それこそ金がそうそう容易に見つかるものなら「それを探す必要などない」。見つかりにくいものを探す苦労がイヤになったからといって、すでにせしめた手持ちのお宝だけもって「終焉(おわり)」を勝手に宣告するのはいかがなものかと思います。
ゴミためのなかの微小な未来の探し方
前々からこのブログではしつこいほど書いていますが、まわりが悪く見えるのは他でもない自分自身のせいなのであり、まわりがゴミだらけにしか見えないのだとしたら、むしろ自分自身の普段の活動がゴミためみたいになっていないか確認してみたほうがいいと思います。批判されるのはそれなりに原因があるわけで、批判するほうも断崖絶壁をよじのぼって批判をするより、平坦な道をとおって批判するほうがラクに決まってます。批判者が集まるのはそれなりに批判者を受け入れやすくしている自分がいるわけで、そのことを棚上げしたまま、アホな批判が多いから「やめた」なんていうのは、どうなんでしょうか?批判をもらったら、むしろ、その流れに身を任せて、批判を受ける自分をあるがままに見つめなおして、批判の責任を自分に問えばいいのではないかと思います。きっとどこかしら間違ってるところを「新たな事柄」として発見できるのでしょうから。
そここそ、膨大なゴミための中で金が見つかる場所だったりするんじゃないでしょうか?
一見、「終焉」にみえる只中にこそ「未来」は埋もれているということでしょう。
自然の物事の有り様を「なぜ?」という視点で観察する
と、そんなことを書きつつも、反省すべきはやっぱり自分自身だなと思うのは、ここ最近、どうやら「法則」というものを見誤っていた気がするからです。物事の間の関係を示すその法則性は、人間がその場にいて観測するかどうかにかかわらず、常に真である。太陽は毎朝昇る。熱は熱い物体から冷たい物体へと流れる。鹿の群れは、ピューマを見つけると必ず走り去る。これらは伝説時代の法律とは正反対のものであり、束縛のための手段ではなく、野生から溢れ出てその本質を形作るものだ。事実、それらを法則と表現するのは、少々筋違いである。というのも、法則という言葉を使えば、本来自由奔放であるはずの自然の事柄が、ある種の規則に従うことを選んだという意味になってしまうからだ。これは正しくない。法則とは、自然の物事の有り様を成文化したものにすぎないのだ。ロバート・B・ラフリン『物理学の未来』
ほんとに最近、あやうく誤解しかけていましたが、この本を読み始めたことと、「終焉」をめぐるいくつかのブログに出くわしたおかげで、なんとか修正できそうです。まさしく「自然の物事の有り様」を当たり前と思わず「なぜ?」の視点を常にもちながら観察してみることはとても有益な気がします。
ロバート・B・ラフリン『物理学の未来』は、還元主義的視点における「終焉」に対して、複雑系の視点からの「未来」を紹介する本ですが、かといって、
私は還元主義を非難しようとは思っていないし、また、物事の大きな枠組みでそれを適切な場所に位置づけようとも思っていないのだ。ロバート・B・ラフリン『物理学の未来』
と、書いているあたりは、その姿勢はぜひ見習わなくてはと感じます。
「未来」という宝の発見は、そうすることが比較的ラクな非難という行為の先ではなく、きっと、ごくごく当たり前に目の前に存在している「自然の物事の有り様」のワイルドなさまを受け入れてこそ、見出せるものではないかと思ったりするのです。
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