現在存在するWebページの数がどれだけあるのか、正確な数は誰にもわからないが、まだ1兆も行っていないだろう。その程度で「知的生産の道具としては役に立たなくなった」とはヘタレもいいところなのではないか。
10の12乗に満たないというのは確かに少ない。
正岡子規が認識していた俳句の可能世界の有限性
一方、俳人の正岡子規はあかさたなの五十音という限られた種類の文字を用いて、たった17音の組み合わされる俳句という形式の有限性を憂いていたといわれています。確かに五十音による17音の組み合わせは有限で計算可能でしょう。
あああああ あああああああ あああああ gitanez作
などの同一音の組み合わせを含めても、50の17乗しかありません。
そう。10の約29乗しかないのです。ただし、それは現在のWebページの予想総数よりはるかに多い。さらに日本語に独特の漢字や仮名交じりの表現力を考慮すれば、可能な組み合わせのパターンはさらに膨大なものになります。
もちろん、可能な組み合わせの中のほんとどは意味をなさないゴミで、なんとか日本語として意味をなす組み合わせの数でさえごく限られ、しかも、その中で俳句としてキラリと光るようなものはごくわずかなのでしょう。
でも、だからこそ、天文学的な組み合わせのゴミの山から俳人は知的生産行為として俳句をつくるのではないかと思います。
ベキ分布の世界における知のロングテール
こんなことを考えたのはネット上のゴミうんぬんの話に違和感を感じたということもあるのですが、ここしばらく頭の中からベキ分布のことが離れなかったからでもあります。調べたわけでもなんでもないですが、先の俳句の例など考えてみても、ゴミと宝の分布も巨大なベキ分布になっているんだと思います。
さらにWeb上のゴミ/宝もさまざまな基準で評価してもベキ分布になるからこそ、GoogleのPageRankなんてものの成り立っているのでしょう。
まさにWebのネットワークに置かれた情報は、知のロングテールとでもいうべき様相を示しているのではないかと思います。
しかし、単にこれを格差としてみるだけでは不十分な気がしています。
科学の分野では、カオスの縁で相転移により秩序が生じる際にはベキ分布がみられるといいます。まさに膨大なゴミとごくわずかな宝によってできる山は同じようにベキ分布を示すことで、何らかの秩序をつくろうとしているのではないかと思ったりします。
17語でつくられる冗長性が排除された圧縮されたプログラムとしての俳句は、ほんの1語に変更を加えただけでも大きな違いが生まれてしまいます。ちょっとしたゆらぎが完成された俳句をカオスの内にほうりこみます。
しかし、俳句に比べればはるかに冗長性のあるWeb上の情報はゆらぎによって個々の情報が大きく変化することもありませんし、ネットワーク全体もそれほど影響を受けません。かといって、ネットワークが完全に固定化してしまっている状態かといえばそうでもなく、突然、昨日まで陽の目をみることもなかった名もなきブログがたった1つのエントリーがはてブのホットエントリーになることで一気に注目を集めることもめずらしくはありません。Webのネットワークは、カオスの縁でみられる微妙な秩序をたもっているがゆえに、ベキ分布に従うのではないかと思ったりします。
感覚的にはうんざりするほど膨大にみえるとはいえ、たかだか10の12乗に満たない大きさしかないリソースに必要以上におびえることも、嫌気をおぼえることもないでしょう。
それが本当に無秩序状態なら別ですが、そこには人的な秩序とは異なるものの、自己組織化された秩序がみえているのですから。
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