哲学的な問い:脳がアウトソーシングされてなおヒトはまだヒトと呼べるのか?

脳がアウトソーシングされてなおヒトはまだヒトと呼べるのか?

そんな哲学的な問いが投げかけられたのは、今日の昼下がりの職場でのひとときでした。

想定されていたのは、ヒトの脳をロボットなどにアウトソースして、自分自身の考えや行動の制御が完全に外部に移行した場合の話です。
「それでもヒト?」といえるのかを僕は訊ねられたのです。

まずはロボットの定義についても話しました。
ロボット工学3原則についても教えられました。

ロボット工学三原則 - Wikipedia

僕は考えました。

古生物学では、一個の系統が、進化の各段階で違う名で呼ばれることがある-世代の異なるメンバー同士では、交配を考える選択肢などそもそもないのだが。たとえばホモ・エレクトゥスはホモ・サピエンスへと進化したが、一緒の時期に存在してはいない。彼らは、ときに「時種(chronospecies)」とも呼ばれる。
ピーター・アトキンス『ガリレオの指―現代科学を動かす10大理論』

古生物学の伝統にならい、ホモ・ほにゃららって名前が与えられるのでしょうか?

あるいは、

1984年、目をみはるほど保存状態がよく、880立方センチメートルの脳容量を持つ少年の標本がケニアのナリオコトメで見つかった。160年前の化石で、ナックル歩行と木登りを示唆する類人猿に似たアウストラロピテクスの体勢が、この時代には明らかに現代的な体勢に置き換わっていたことを示していた。ホモ・エルガステルは、現代の私たちと同じように2本の足で直立歩行をした。
スティーブン・ミズン『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』

ヒトが二足歩行を選択することで進化を遂げたように、ヒトが自分の選択で脳をアウトソースする技術を用いたのだから、やはりそれはヒトの進化として位置づけられるのか?

それとも、ヒトとはもはや呼べないのかもしれないが、生物には体内に脳をもたないものがいるのだから、

錬金術からは化学が生まれ、その化学により、鉛、銅、金、酸素、水素といった無機物の原子や分子の解析が行われた。しかし、生物は非生物にはみられない分子を含んでいる。有機分子である。
スチュアート・カウフマン『自己組織化と進化の論理―宇宙を貫く複雑系の法測』

体が有機分子でできているかぎり、生物とは呼べるかもしれない。

そんな風に、いろんな考えが頭をよぎりました。
あまりに哲学的な雰囲気が、お昼過ぎのごくごく一般的なWeb制作会社のオフィスに漂っていました。

脳がアウトソーシングされてなおヒトはまだヒトと呼べるのか?

いろいろ迷いましたが、いま、ここでその哲学的な問いに回答させていただきます。

どっちでもいいです

だって、仕事中にこんなようなへたくそな絵↓を描かれて、そんな質問されても。

へたくそなヒトの絵

僕にどう答えろ?っていうんですか。

  

この問題。
ちゃんと考えたいヒトには、デネットのこの本がおすすめ。

 

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