いまの時点で、一般的な「信頼」の条件だと考えられるものを1つをあげるとしたら、それはいまここと同じものを将来において得られるかどうかということなのではないかと思っています。
先日紹介したスティーブン・ミズンの『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』の中にこんな一節があります。
ロバート・アクセルロッドは、1984年の著書『つきあい方の科学』でコンピュータを使った囚人のジレンマのトーナメントについて記述したとき、実社会の状況でいかに協力が促進されるのかという問題を取り上げた。(中略)ひとつは、"将来の影"を大きくすることだ、将来のいつかの対戦が今現在の対戦より重要だと思うようになることを意味する。スティーブン・ミズン『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』
囚人のジレンマというゲームはご存知のとおり、プレイヤー同士の協力によって、より多くのインセンティブが得られるというゲームです。
このゲームの戦略は、相手との対戦が一度だけか、複数行われるかによって協力を選ぶかどうかが変わってきます。一度しかないなら自身のリスクを減らすこと(自白すること)を優先するかもしれませんが、対戦が複数であれば互いの利益を最大化するよう協力(黙秘すること)を選ぶ確率は増えるでしょう。
同じようなことがわりと一般にもいえるのではないでしょうか?
例えば、自分が買う商品であれば、毎回自分が期待するものが同じように得られることが信頼の条件となるでしょう。それが毎回買うたびに品質が著しく異なるようであれば、ちょっと信頼しにくい。
ブランドが品質を売りにしたり、企業が品質管理のオペレーションを競争戦略に選んだりできるのもそのためでしょう。
また、買い物をする場合でもお店の人の態度が商品を買う前と買ったあとで豹変したりすれば、いちじるしく信頼は失われるのではないでしょうか? きっと二度と買いたくないと感じるでしょう。
将来において同じものに出会えるかは相手が個人の場合でもあてはまります。
当然、住所不定の人や連絡先を教えてくれない人などは信用しにくいはずです。そんな人とはなかなか付き合う気にはなれないのではないでしょうか? もちろん、自分の側にも同じ事情があるなら別ですが。
同様の意味でブログにコメントをもらう場合でも、きちんと自身のブログをもっていて、そこにメールアドレスなど直接アプローチできる手段が記載されている人からコメントをもらう場合とそうではない場合とでは相手に対する信頼の度合いも変わってくるのかもしれません。
いつでも期待する場所にいて、期待する最低限の反応を返してくれて、そして、それがずっと続くと思えるような相手のほうが信頼しやすいということはあると思います。
結局、人は自分が信用したのに、あとで裏切られることはやっぱりイヤなんだと思います。まぁ、当然ですよね。自分がイヤだと思うなら、まわりに対しても同じように考えてあげることが信頼を得るための条件かもしれません。
そのリスクが少なく感じられるようにする配慮-将来もいまと同じかそれ以上であることを保証する何かの提示-が信頼につながる1つの要因なんだろうなと思いました。
その場合、どんな要素が将来的な信頼のための必要条件であり、十分条件であるのかは、信頼を感じる側が支払うコストとそれによって獲得を期待するインセンティブのバランスも大きく関与すると思うので、シーンによって異なるものなのでしょう。
そのあたりは自分と相手の期待感が一致するとは限りませんので、簡単にはいかないところですが。それも付き合いを継続する中でたがいに歩み寄っていくものなんでしょうね。
P.S.
あっ、そうか。これ、監視の問題ともいっしょだな。
中身(Contents)は容易に入れ替わりうるので、監視対象物の自己同一性をボディとか物理的な場所とかURLとかIPアドレスとかにしてるわけか。
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