イデア論という思考/文化のインフラ

プラトンのイデア論がなんだったか? そして、それが何故、どんな変遷を経ながら西洋社会に受け継がれ続けたのか? それを知ることが必要だと思います。
わからなくても、とにかく知ること! 知りたくなくても知ること!! 四の五の言わず、知ること!!!!!! とにかく、そのくらい知ろうとすることが必要なものだと思っています。

詩仙堂

なぜイデア論云々を知るべきだと思うかといえば、それが西洋の知、しいては近代以降の僕らの文化を考える上で避けては通れないインフラのひとつだと思うからです。

さらに言えば、日本人はそういう他文化に敬意をはらうというと意味で他者に興味を示すということをしなさすぎると思うからですし、他者に敬意と興味を示すこともできない人間が自分自身や自国の文化に敬意や興味を示すことはできないと思うのはからです。

何か本物や真実や決まった意味があると思えたり、それを前提に考えたり生活するのを当たり前と考えることを可能にするインフラ

とにかく近代以降の本物と偽物、オリジナルとコピー、真実と幻想、定価や定義とそれらが定められていない怪しげなもの。そうした区別の正統性をいうのに、どれほどイデア論が担がれたか。それをまず知ることが非常に大事な時期になってきていると思うのです。

というのも、それを知らないまま、そうしたものへのアンチ、対抗的思考や活動が目立つようになっていると思うからです。それらの活動が目指すところを否定したいがために、いまこれを書いているのではなく、敵を知らぬまま、立ち向かったのでは犬死だと思うから書くのです。

では、それはどんな活動や、意識なのか?
一般論を嫌ったり、組織への所属や固定した居住形態を嫌ったり、持たざる生活を目指すノマド的な活動も流行りですが、僕が想定するのは、そうしたものです。
そうした活動は必要ですが、同時にいまそうした意識や活動が芽生えてきていること自体が、イデア論的なものを根拠として担ぐ傾向のある、すべてを抽象化して定着させる力の根源である文字〜活字文化がマクルーハン的な意味で人間拡張した結果に対するアンチでしかないことは認識しておかないと、ドン・キホーテ的な戦いに終わります。

文字〜活字文化の力と空海

イデア論的なものと文字〜活字文化の強大な影響力がどれほど人間拡張のインフラであるかを認識しなければ、対抗的活動でしかないノマドなど、確実に足元をすくわれる。そのくらい、西洋の知が歩んできた道は強固です。

そうした強大なものに敬意をもって認識しようとしないまま、ただ無知ゆえの無謀さで、単なるアンチでしかないノマド的なものを目指しても、その力の前では無力すぎて、結果は期待できません。
心してかかろうもすれば、文字の力に抗う術を模索した空海のようにある必要があります。

そう。空海です。
空海についても、イデアについてもおすすめの本はすでに紹介してます。他では「中世の覚醒/リチャード・E・ルーベンスタイン」や「薔薇十字の覚醒―隠されたヨーロッパ精神史/フランセス・イエイツ」も、西洋の思想や文化においてイデアがどのようにそれらを支えるインフラとして変遷してきたかを理解するには最適な本です。
こうした本があるのに、それで学ぼうとしないなら、あとは知的怠惰でしかないでしょう。あるいは、先にも書いたとおり、他者の独力に対する敬意の欠如か。

いずれにせよ、僕らは自国の文化にも、他国の文化にも敬意をもたず、興味を示さなすぎます。そんな輩に何かができるはずはないでしょう。

敬意とは努力そのもの。まずはそこからではないかと。
イデアの変遷と空海について学んでください、と大阪出張に向かう新幹線のなかで雑多に浮かんだことをメモ。

  

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