- 考えていることを言葉や文章で表現しない。
- 手法の習得やスキルアップなどに際しても、セミナーやワークショップなどの場での練習ばかりで、実際の仕事の現場での実践のなかで失敗しながら学ぶことを避ける。
- 電車に乗る際、奥にいかずに、入り口付近に立ち止まっているくせに、後ろから人が乗ってこようとする際に奥に空いてる空間があってもそこによけようともしない。しかも、気づいていないからではなく、よけるためには、さらに奥の人にふれる形でしかよけられないために動かない。つまり、自分から他人に嫌われそうな行動を避ける。その「動かない」ことで電車に乗りたい人が乗れないという迷惑が発生しようとも「やって」迷惑より「やらないで」迷惑を選ぶ。
- ソーシャルメディア上でもおなじで、人に迷惑をかけたりしないようにとか勘違いしてポジティブなことだけをつぶやこうとする病気。
- 具体的なモノの形状やスタイルなど、言葉で考えられることには限界があることに対して結論を出すことが課題となっている時に、いつまでも言葉での議論に終始してしまう。議論をしているという誤った「やっている」感があるために、自分たちが目の前の課題への解決を出すのを避けていることに気付かない。
- 自分の身を守るための「すみません」がまわりの人をどれだけ攻撃しているかに気付かないケースがある。つまり、自分の文脈のなかの立ち位置が見えていないのと、まわりの人の立ち位置からみると自分がどんな風に感じられているのかがわからないのだろう。
- 知とは、未開の地に狩りにいって手に入れるものというより、口を開けて待っていれば親鳥みたいな存在が自動的に入れてくるものだと思っている。
- もしくは知を得るためにはフィールドで掘り当てた原石のような知を磨いて知識とする努力が本来は必要であるということを知らず、スーパーでお惣菜のように売られているものを入手してきてチンすればいいと思っている。あるいはネットがあるから部屋をである必要もないとか。
- 調査等で明らかになったさまざまな要素のあいだの関係性を見つけて構造化する作業を行なう際に自分たち自身でそこに隠れた関係性を発見することができず、結局、どこかから既存の枠組みをもってきて、その枠の中に要素を位置づけてしまう。つまり、要素間の関係性を眺めながらこれまでの文脈にない構造=ルールを見出すことができず、既存の枠組み=ルールのなかで解決しようとしてしまう。それではルールのなかでうまくやることはできてもルール自体を新しく作るようなイノベーションはできない。
結局のところ、鏡に映った自分自身の姿を客観的に見る視点が欠けているわけです。
あるいは、1つの鏡をずっと見っぱなしで、いま見えている自分やその自分が考えていることが、実はそれを可能にしている鏡の特性であることが気付かないか。
切開〜抽象化する思考スタイルの欠如
やっぱり自分自身の思考やモノの見方や存在そのものを、客観的にみるメタ的な視点が必要です。自分を日常的な文脈から切り離すような。道元なら「自我によってすべてを認識しようとするのが迷いなのだ、諸々の現象のなかに自我の在りようを認識するのが覚りである」というような、あるいは、深澤直人さんなら「自分も他人もすべて入った入れ子状態のものを「環境」と定義」したというような。
バーバラ・M・スタフォードは『ボディ・クリティシズム―啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』

解剖や古代文化の発掘作業などをメタファーとする「掘り出し作業は、世界の二重性をあばきだす知的な探求の〈方法〉を表象した」のだといい、「論証思考の必要としたのは相手を剥いていく抽象の力で、これが心の中で低い個物を高い一般性から分離するのである」と抽象化する思考のはじまりを告げています。
さらには「つまらぬ述部は大事な主語から分離され、取るに足らない個は重要な普遍から差し引かれた」と曖昧さを含んだ個別性からプラトン的な普遍的イデアを切開と抽象の思考によって取り出すことを良しとする風潮が定着してきたのが18世紀のヨーロッパである、と。
このスタフォードのいうような「解剖=切開」なり、発掘作業なり、抽象化なりといった客観化する思考スタイルが身に付いていないから、自分を外から眺めることができず、他者のうちに自分の目=思考が映し出されていることを悟ることができないのでしょう。
問題はなぜ、それではマズいと感じてすぐに身体が動かないのか?ということだろう。
日常の文脈から知を切り離す
身体や世界を切り刻むことで、余分な贅肉を切り落として抽象化する18世紀ヨーロッパの知的解剖プロジェクトは、それによって個々の現場の文脈から切り離して使える知の体系化が可能にもしました。知性と理性が迷信や誤謬を一刀両断にしなければならない、と新哲学者たちは言った。それはまた、偉大な作品をうめない代わりに判断の能力には長けていると自ら感じる自意識過剰の時代に猖獗する風土病でもあった。してみると18世紀こそは後にマラルメやデュシャンの口をついて出る、観念はない、あるのは批評だけだという近代病の出発点なのである。バーバラ・M・スタフォード『ボディ・クリティシズム―啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』
実践より理論、手業より思想を上にみて、「頭脳の産物こそ理想であり手による制作は二の次」だと考えた18世紀から近代へと連なるネオプラトニズム的な系譜。
この思想を近代から現代を通じていまだ通過していないがゆえに日本ではリサーチアンドデベロップメントということがわからないのだろう。いやいや、イデアがわからないのだから基本的にはデザインということがわからないということになる。
この具体的文脈からイデアを切開するネオプラトニズム的な方向性が重要な変化をもたらしたのだと僕は思っています。
個々の現場の具体的な文脈から普遍的で抽象化された思考を切り離せるということは、ひとつには、それまでの徒弟制的/OJT的な職能伝達から自由になったということです。それは職業訓練の体系化をもたらし、現場の積み上げの先に管理職があるのではなく、それはまた別の学習であるMBAを修了することで職能を得られるような社会を可能にしました。つまり、スター選手が必ずしも名監督にならなくてよい世界です。
はたまた、文脈から知を切り離すことで、実物のモノがその場になくても設計図や数学的なモデルなどの記号を使って抽象的な思考を組み立てられるようになりました。
「実践より理論」をベースとしたデザインを、ほんのすこし「理論もいいけど実践もね」という側にシフトしたのがデザイン思考
いうまでもなく、この切断/抽象化する思考によって可能になったのが、デザイン的思考です。なんですが、どうも日本人である僕らはそのあたりがよくわかっていません。
「実践より理論」ということに対するアンチテーゼとして、プロトタイピング等で「理論より実践」にいくぶん回帰した方向性をみせるデザイン思考のポジションも日本では理解されません。それはあくまで「実践より理論」とうことによって可能になったデザインするという行為が、ほんのすこしだけ「理論もいいけど実践もね」という側にシフトしたのであって、まずは抽象化による理論化が身に付いていない日本においては、そのまま受け入れられるものではないということが認識されていない。
当然、それでは表面的な方法論としてだけ「デザイン思考」を取り入れたとしても、思考や行動を司る根幹的な文化の部分からの突き上げとしての思考方法にはなっていないから、きわめて表面的なところでしかデザイン思考というものを捉えられない。
いや、それこそ、社会の文脈のなかにそうした切開の痕跡(手術の傷痕)が残っていなくて、単に外から文脈から引き剥がされてきた表面的な知識のみを輸入してしまったので、その辺りが普通に暮らしてるだけではわからないんですね。
こういう深いところに問題があるのに、そこを直視しようとする人があまりに少ない。困ったものです。
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