情報社会は監視社会である

本当にそのとおりだと思っていたんですけど、こうはっきり書かれると唸りますね。

情報社会は必然的に監視社会であって、新たなテクノロジーに強く依存する。だが、それに加えて、監視社会とは、統合された情報インフラのおかげで、社会生活の各部門に監視が浸透するという意味でもあるのだ。国家による監視が支配的であるどころか、監視は今や、労働の現場や消費の場面にも同様に見出される。
デイヴィッド・ライアン『監視社会』

それどころか、監視は今や、個人が利用するブログやSNS、RSSリーダーにも同様に見出される。この本が書かれた2001年からさらに進化したテクノロジーによって監視の問題はさらに社会に浸透しているのだといってよいのではないかと思います。

監視の2面性

監視というと、どうしてもネガティブな面ばかりを思い浮かべてしまいますが、「監視社会(せめこれ7)」でも書いたとおり、監視の問題は常にファインダビリティと背中合わせです。自分がどんな人間か、何が欲しいかといった個人情報を提供することで、探しているものが見つかったりするわけです。
それどころか、自分の身分、身元をあきらかにしているからこそ、会社からの給料がもらえ、病院にいけば健康保険が使え、郵便物がちゃんと自宅に届いたり、電話が自分の携帯電話にかかってきたりするわけです。
便利さを手にしようとして、自分の居場所や身元、嗜好などを開示し、外部から管理されることに同意したとき、そこに監視が同時に生じるということです。

それは、

私たちが、社会的・経済的・政治的な仕組みを組織と管理という合理性の体制に組み込もうとする中で作り上げた世界の、その一部なのである。
デイヴィッド・ライアン『監視社会』

ということです。

管理-コントロール

しかし、監視は同時に次のようなこととも関連します。
人々は、各自の個人としてのアイデンティティーが確立されるにつれて、より明確に固有な存在となったが、裏返せば、より管理し易くもなったのである。
デイヴィッド・ライアン『監視社会』

プライバシーは自分がプライバシーを主張する権利をもつ人間だというアイデンティティーを確立することではじめて手に入るわけですが、それは同時に「管理し易さ」を提供することにもなるわけです。
こう書くと、個人としてはどうも自分ばかりが管理される側に立っているような気がして、あまり気分がよくありませんが、やはり状況はすこし変化してきているのではないかと思います。
コントロールという意味では特に。

20世紀後半に至るまで、近代の社会関係を組織・調整していたのは、主として、スケジュールや時間割の利用であり、多くの工場・事務所で実行されていた直接的な監督指揮であった。(中略)もちろん、私たちは今でもスケジュールや時間割を用いているが、しかし、新たなテクノロジーによって、諸々の活動を、地理的にはるかに広い範囲において時間も同期させることなく、調整できるようになっている。
デイヴィッド・ライアン『監視社会』

「地理的にはるかに広い範囲において時間も同期させることなく、調整できる」という意味では、YouTubeと地上波のテレビ番組を比較してみたらどうでしょう?
いまや地理的にも時間的にも自由にコントロールしているのは、私たちユーザー側だったりするんじゃないでしょうか?
もちろん、完全にコントロールしきれるまでには至ってませんが、すくなくとも少し前まではユーザー側は一方的に、地理的・時間的にコントロールされる側だったはずです。

その意味では、監視という言葉も上から下に(例えば、国や企業から個人に)一歩通行で行われるものではなく、双方向的な監視になってきているのだと思います。
コーポレート・レピュテーションやCSR(企業の社会的責任)などという言葉が示すように企業が自社の評判を気にするようになったのも、企業もまた一般の市民から監視される対象になったことを示しているのではないでしょうか?

まだ、この本は3分の1ほど読み終えただけですが、この問題はなかなか興味深いなと感じています。



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