2011年09月09日

自分にも他人にも容赦をせずに自分の考えを言葉にすることを心がけないと

遠慮とか、他人に気を遣うこととか、人目を気にすることとか。
いりませんね。必要ない。いやいや、それどころか、自分が思考し行動する上では邪魔でしかありません。

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本当は上手に気をつかえたり、他人への配慮ができるチカラがあれば、それらも悪くないもののはずなんですけど、いまを生きてる世代で、そんなことが上手にできる人なんていません。
何をどう配慮すれば相手も自分も上手くいくかなんてインタラクティブな文化的解答を僕らの世代はとっくに失ってしまっているし、その喪失にさえ気づいていない有様です。気を遣って相手も自分もいいようになるよう希望しても結果は真反対。このシュリンクする経済状況を見るだけでも明らかです。
そんな縮小という結果に向かわせるだけの人の和なんてものはもはや美徳でもなんでもありません。単なる相互甘やかしの悪循環を生むだけです。

まずは自分自身のなかに齟齬を生め!

そんな、なあなあの状況がいいわけがない。なあなあ言いあうだけで、みんなが自分の考えを言葉にする努力を徹底的に怠っている状況は末期的な印象を受けます。

自分の頭のなかで言葉として考えを組み立てることをサボって「いいね!」で済ます。こういう記事を見つけて何のコメントもなしにリンクだけはってツイートしてるのも同じ。言葉がない。自分が何を感じたかをあらためて言葉にして見つめ直すという視点がない。それゆえ、そこには共感した自分とそれをあらためて言葉にする自分のあいだで生じるはずの齟齬が存在しない。自分自身のなかでさえ、なあなあがはびこっています。

自分自身のなかで考えを言葉として組み立てること。それをして、ちゃんとその内容に目を向ければ、なにかしら「あれ?」と思うようなつまずきに出会うはず。そのつまずきという齟齬を見過ごさないこだわりが大事です。
実はその齟齬が共感した自分とその共感とズレた自分のライバル関係を生む。ライバル関係こそがいまの自分を飛躍させるためのきっかけになります。

ところが、考えたことを言葉にする作業をはじめから放棄していたら、そのチャンスは訪れない。なあなあだからです。こだわりがないからです。結局のところ、そういう自分自身のなかで齟齬が生まれることさえ怖がっているのでしょうね。自分自身でもカンタンに処理できなくて面倒なことになるのがイヤなのでしょうね。知的怠惰の一例です。そんな怠慢でショボすぎる現状が変わるわけないのに。ショボすぎる現状を他人のせいにしても、きっと状況は悪くなる一方なのに。

前にも「頭の中にあることを瞬間的に出せる訓練をしないとコンセプトもへったくれもない」や「語彙が少ないと仕事の能率もわるい?」といった記事を書いたけど、言葉にできないと考えたことにならないというのになんで気付かないんでしょう? まさに「Fw:本当に考えたの?(それは「考えた」と言わない。)」です。「わかったつもり 読解力がつかない本当の原因」です。考えてなさすぎだし、わかってなさすぎですよね。なによりわかろうとしなさすぎだし考えようともしてなさすぎです。
起きてるあいだ、何してるんでしょ?

そして、自分から積極的に考えを言葉にすることはいっさいないのに、誰かに何かをいわれたときの言い訳だけは饒舌になる。なんやねん、その態度? 自分をそんな風に弁護するのではなく、もっと積極的に自分のなかに齟齬をつくりだして過去の自分を常にアップデートしていく方向でいこうよ。

容赦しないて討議しよう

ところで、ライバル関係がスキルアップになるのは、もちろん自分内のライバル関係の場合だけでありません。むしろ、実在の他者とのライバル関係なら、もっと有効です。

齟齬が自分を鍛えてくれるのなら、他者とのほうが齟齬は生じやすい。その他者との齟齬を積極的に利用していきましょうよ。
でも、そこを最初に書いたような遠慮やら気遣いやらで、なあなあな関係で何もかもぼかしてしまおうとするから、自分を鍛えるのに役立つはずの他者との齟齬も生まれてこない。そこまで脳みそを使う機会を減らして、いったいどうするつもりなんでしょうか?

あのね、そんなことしてないで議論をしましょう。ちゃんと自分の考えと他人の考えを闘わせる議論をしましょう。
揚げ足取りあいや感情的なだけの言い合いはさすがに歓迎できませんが、互いに自分が考えていることを述べ合い、相手の考えも聞きつつ、それでも自身の考えの優位性を打ちたてるような思考を展開し論を組み立て、相手に容赦なく、それをぷつけましょうよ。闘うためにも普段から自身の考えを何度も様々な形で言葉として組み立てながら、自身の考えを鍛えておきましょう。いまならメモがわりに使えるソーシャルメディアもモバイルツールもあるのだし、それで誰かが突っかかってきたら飛んで火に入る夏の虫じゃないですか。闘う相手が向こうからやってくるわけですから。

自分の考えを言葉にする。そして、それを相手にぶつけて見る。相手は相手自身の考えとあなたの考えとの差異を指摘してきたりするでしょう。そこにこそ、自分の考えをより強固で大きなものにするチャンスがあるわけじゃないですか。相手が指摘する差異をも自分の考えのなかに取り込むような新たな視点をもって、自らの考えを再構築できる機会が与えられるわけです。そこには発見もあるはずです。しかし、そういうこともまず自分の考えを言葉にして、それを他人にぶつけてみないとはじまらないわけです。

どうも、そういう自分で考えたことを言葉にするということをせず、他人の考えた情報を毎日拾ってばかりの情報乞食が多いような気がします。自分の考えも社会や会社に提供して、みんなで未来を作っていこうというシェアの精神がきわめて薄いような…。
そういう状況だと、ライバル関係も成立しにくいので、全体的に沈んでいく。シュリンクしていく。そういう悪循環にして自分自身の生きる環境も悪化させてるのは、自分の考えを言葉にする作業を日頃からすることを怠っている自分自身のせいだということに何故気付かないのかな?

はやく気付いて闘っていこうよ。

こだわりがあるというのは違いが見えているということ

さて、そういう闘いに臆せず臨むためにも、やっぱり自分のこだわりを持つことが大事だと思います。

こだわりっていうのは、結局、違いがわかるということなんですね。違いがわかるからこそ、あるものにはこだわることができ、別のものは無視することができるんです。だからこそ、こだわりがある人の方がない人より仕事ができる可能性が高い。違いがわかる人の方がそうでない人より仕事ができる可能性が高いのは想像がつきますよね。違いが見えなければ仕事に必要なさまざまな判断、決断はできません。こだわりを持つ人が仕事ができるのは、大事な違いがわかる人だからです。

で、違いがわかるというのは結局見えているってことです。わかっているってことです。違い=区別の基準がはっきり見えていて説明もできる。見えてなかったら何もできません。見えているからこそそれと向き合うことができる。
違いが見えているから、それを自在に使いこなせるし、いろんな応用もできる。つまり、それは自身の考えとこだわりの対象をリンクさせることができていて、考えを言葉として組み立てる過程で、自身のこだわりを使って物事をなすことができるわけです。

ようするに、こだわれるということは、それだけ知識があるということ。しかも知識や情報に溺れず、自分で好きなように加工やコントロールもできるということ。つまりは知識を使いこなせるということ。それがこだわりの本質。
であれば、こだわりがない人が仕事ができないのは当たり前ではないか、と。
もちろん、自分の考えを言葉に出せない人にまともにデザインなんてできるわけがない。人間中心設計やデザイン思考に興味があります、とか寝ぼけたことを言ってる暇があったら、自分の考えを言葉にして僕にぶつけてきてほしい。

こだわるために強奪せよ

結局、これなんですよね、必要なのは。でも、このこだわりこそ、いろんなものに遠慮しつつ、なあなあでやり過ごしていたら絶対に手に入らないものでしょう。それこそ、容赦なく強奪するくらいの心意気があってこそのこだわりです。

もちろん、こだわりというのは現状のところ知識なわけですから、強奪するといっても他人に物理的な迷惑をかけたりはしないはずです。それよりも強いられるのは、自身の知的好奇心のめいいっぱいの稼働でしょう。好奇心をもって違いを見極めていくなかで、それを自身のなかに言葉のアーカイブとして知識を構築していく。その作業が強いられる。強奪されるのは、自身のそれ以外にかけられるはずだった時間やその他もろもろのコストでしょう。

なんでしょうね?
そんな風に自分自身を駆り立てている人をあまり見かけません。これだけ気軽に自身の考えを言葉にでき、他者とも議論をできるツールもあるのに。

なんとなく、そんなことをさみしく思いつつ、今日は数ヶ月続けてきたFacebookページの更新を停止することに決めました。
何を考えたか伝わってこない無言の「いいね!」は見ていて悲しくなるばかりなので。



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posted by HIROKI tanahashi at 22:47| ライフハックス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする