くどいですが、しつこく言うといちばん最初の作り手側の本気ぶりが伝達の発露のキーになっているということなわけです。
なぜ「言葉は届いてなくても、気持ちは届いちゃう」といったような、言葉という伝達ツールを使わずに伝達が可能になるのか?と思ったわけです。
誤解のないように先に書いておくと、僕自身もそれは伝わると思ってるんです。先に引用したエントリーの最後は「ちゃんとやってれば伝達はされるから心配することなく、いいエントリーを書きましょう」と締めくくられていますが、これには完全に同意するわけです。
じゃあ、何が疑問なのかというと、「本気ぶり」だったり「ちゃんとやってる」ことだったりは、言葉そのものが伝えないのだとしたら、いったい何が伝わるのか?ということなわけです。
オカルト的(非科学的)に「気持ちは伝わるものだ」と納得するのは、僕としてはちょっと気持ちが悪かったんです。なので、僕的にはそこにもこだわってみようか、と。そういう主旨のエントリーなわけです。
ISDにおける韻律による発話内容の伝達
で、「なんでだろ?」って考えてるうちに、いま読んでる『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化 』にヒントになりそうな話を見つけたわけです。幼い子どもとコミュニケーションしようとする場合、韻律が誇張されるISDは「大人への発話」より強力な手段であることがファーナルドらの実験で示されている。(中略)ファーナルドは、この両方の発話サンプルから語彙内容を"ろ過"し-ことばを取り除き-音曲線だけの音響フレーズに加工した。乳幼児に慣れていないべつの大人群を用意して、乳幼児への発話と大人への発話から作った音響フレーズを聞かせたところ、(非語彙的)フレーズの内容-容認、禁止、注意喚起、慰撫のどの文脈で発した音声がもとになっているか-の認識率は、乳幼児への発話のほうが大人への発話より有意に高かった。
これらの実験は、ISDでは"メロディがメッセージである"こと、つまり、韻律だけで話者の意図をくみ取れることを示している。スティーヴン・ミズン『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化 』
ISDとは乳幼児への発話(infant-directed speech)のことです。この本では人間の進化の段階で言葉と音楽はどのような関係で形成されてきたかを探求していて、上に引用した部分では乳幼児が言葉を覚える段階での韻律が誇張されたISDに、音楽は決して言葉の登場のあとに付随してつくられたわけではないという根拠を見てとろうとしているわけです。
これが言葉なしでも本気ぶりが伝わることを理解する1つのヒントなのかなと思ったわけです。
韻律のみで、容認、禁止、注意喚起、慰撫などの発話の内容が伝わるのであれば、「本気ぶり」というようなものも同じように、言葉の意味内容を"ろ過"した場合でも伝わる可能性があるのではないか、と。
つまり、それはオカルト的に「気持ちが通じる」のではなく、韻律というパターンによって言葉を理解するのとは別のやり方で、脳が情報を処理しているのではないか、と。そう思ったわけです。
文章の中の「本気ぶり」パターンは存在する?
もちろん、ブログのエントリーは文字で書かれているため、そこには韻律は存在しません。メールでは誤解を受けやすい内容も、電話なりで話せば意外とすんなり理解してもらえるのも、もしかすると言葉の伝達において、普段、僕たちが思っている以上に韻律が意味内容の伝達において重要な役割を担っているということかもしれません。当ブログでたびたび紹介させてもらっているジェフ・ホーキンスの『考える脳 考えるコンピュータ』によれば、人間の知能をつかさどっている脳の大脳新皮質という器官は、パターンのシーケンスを認識、処理することで、さまざまな人間の知能的活動を行っているわけです。
それを考えると、文字で書かれた文章であっても、発話における韻律と同じように、容認、禁止、注意喚起、慰撫や「本気ぶり」を伝える何かしら独自のパターンを持っていたとしても不思議はありません。
本気で伝えたいと思って書いた文章と、単なるアクセス数稼ぎで人目をひきそうな単語をちりばめただけの文章では、どこかしら文章内のパターンに差異が生じているのかもしれないなと思ったわけです。
これを実際に確かめるには、先のISDの実験にも似た何かしらの実証実験を行うことが必要なのでしょうから、ここではこれ以上は踏み込みませんが、何かしらそうしたパターンの相違が存在しない限り、人が言葉をちゃんと読みもせずに「本気」かどうかを判断することはできないだろうなと思うわけです。
脳のパターン認識は騙せない?
さて、長くはなりましたが、実はここまではある意味では前ふりなわけです。「言葉は届いてなくても、気持ちは届いちゃう」「ちゃんと作っていれば、作り手の真剣度だけは子供にはちゃんと伝わる」ってことが、何かしら発話された言葉や書かれた言葉、そして、作られたものにパターンとして表れ、それを脳がちゃんとパターン認識ができる機能を持っているのだとすれば、実はその反対に、ちゃんと書かれていないエントリーや、物真似や受け売りみたいな文章はすぐにバレちゃうということでもあると思うんです。
前から気になっていたんですが、人気エントリーになりやすいブログの書き方だとかタイトルのつけ方みたいなLifehacks的なことについて書かれたエントリーをたまに見かけるんですが、あれってちょっと違うなって感じていたんです。そういうhacksはあっていいんですが、hacksはやっぱりhacksであって、その前にもっとちゃんとしたやり方ってものがあるのを忘れてはいけないなって思うんです。
例えば「~のための10の方法(コツ、ルール)」とかってありますが、それってちゃんとMECE(モレなくダブりなく)になってるの?って思うことがあります。中にはもちろんちゃんと考えて書いている人もいるので、そういうまとめ方自体は否定しませんし、むしろ、わかりやすくていいなとも思うわけです。
でも、それとは違って、単にそういう書き方のほうが人気が出やすいからという理由でとりあえず思いついたことを10個並べた場合は絶対にMECEになっていないと思うんです。
そこには絶対にモレがあると思うんです。
「本気」だとか「ちゃんと書く」っていうことのモレが!
そう。あなたの提示しているリストには「本気」とか「ちゃんと」っていう項目が抜けてるんですよ。
ようはそれってSEOスパムとかとスタンス的には同じなんです。
ちゃんと書いたものが結果的に人気になるっていうのと、人気のエントリー風に書いたものとは何かが違うんです。何かしらのパターンが違っていて、それは完全に意識的に区別できるわけではないにせよ、なんとなく脳はそのパターンを区別してしまい、スパムは「スパムじゃないの」くらいには僕たちにもわかるわけです。
それはGoogleがスパムをリンクのパターンによって区別しているのと同じことだと思うんです。
脳はそう簡単には騙せないんだなと思うわけです。
あなた自身が言語的に「これはあれだ」と認識できていなくても、あなたの脳はちゃんと違いを区別してるんじゃないでしょうか? あなたはあなた自身の脳の判断と他人の言うこと(常識やルール、うわさや評判など)の判断のどちらを信じるんでしょう?
そして、もう1つ。
本気で書いた場合とそうでない場合にパターンがあるはずだとは予想できたとしても、そのパターンが具体的にどうなのかを理解していない限りにおいて、結局は「本気風」に書くことも、「ちゃんとしてる風」に書くことも、僕たちにはできないわけです。
そうなると、
まわりくどくなりましたが、結局は僕も「ちゃんとやってれば伝達はされるから心配することなく、いいエントリーを書きましょう」というみたいもん!の意見に完全に同意するというわけです。
とにかく自分でちゃんと物事見て聞いて考えて、それを恥ずかしがらずに書けばいいと思うんです。
ブログスフィアはそういう人にはやさしい環境ではないかと感じています。
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