自分ではわからない間違いがある
先のエントリーでは、過剰に間違いを恐れてアウトプット速度が遅くなるのはよくないと書きました。しかし、当たり前ですが、それは間違ってもいいということではありません。間違いがどうかを検討するくらいは当然アウトプットを行う前にやっておくべきです。ただ、そこに間違いだとまだ決まってもいないのに必要以上に間違わないことに過敏になる必要はないということです。最初から間違ってると自分でわかっているもの以外は、結局、いくら自分だけで考えてもそこに間違いがあるかどうかは自分ではわからないわけです。そういう間違いは他人に指摘されてはじめてわかる。だとすると、一度、他人に対してアウトプットするしか、その間違いはなくならない。その意味でも時間をかけて答えの出ない問いに悩むより、アウトプットしたほうがよいということです。
間違えるのを許されるのはそれが訂正されたとき
そもそも、間違っていいのはあとで間違いを訂正できるからです。間違っていようと当たっていようとどのみち自分のアウトプットには責任を負わざるをえません。間違っていたらそれを正す責任はあるし、合っていたならいたでその後に何かしらの責任を負うこともあるでしょう。ですので、いただいたコメントの中に、間違っていいかどうかは「相手による」というものがありましたが、それには半分同意できますが、半分は同意しかねます。というのも、一概に「相手による」と言ってしまうのは他人のせいにしてしまっている気がするからです。時と場合をわきまえるという意味では正しいと思うのですが、可能なら自分が変わることで時と場合をすこし変化させようという気持ちがあっていいと思うのです。結局、自分の発言には間違いが含まれるのかもしれない。しかし、間違っても後から誠心誠意、間違いを正しながら、自分の主張の中の正しい部分を膨らませていけばよいのではないかと思うのです。それを一概に「相手による」と決め付けてしまうのでは何も変わりません。もちろん、手強いところに無理に手を出す必要はありませんが。
間違っていいのはあとで間違いを訂正する責任を自分が負っている限りにおいてです。なので誠心誠意、間違いを正そうと思っても手におえなさそうな間違いを起こす予感があるならアウトプットはやめたほうがいいでしょう。
ちょっと脱線。企業の場合
すこし個人のコミュニケーションとは話が変わりますが、企業が販売する製品から間違いをなくそうとするのもそのためだと考えてみてはどうでしょう?この場合の企業は法人としてあらかじめ擬人化された企業です。企業とはいえ、そこは皆さんと同じ個人の働きで成り立っているのですから、なんでもかんでも企業を眼の敵のように「企業は信用できない」というのはちょっとおかしいと思っています。じゃあ、あなたは企業で働いていないんでしょうか? あるいは学生であれば今後も企業で働かないのでしょうか? と思うわけです。「企業は信用できない」というとき、それは「私も信用できません」と言っているのでしょうか? そうではないでしょう。「企業は~」というとき、それは先ほどと同じく他人のせいにしているようであまり好きではありません。企業に不満があるなら自分がまず変われ!と思います。極論すれば、信用できないのはあなたが信用できるようなことをしないからだということもできます。ちょっとこれは極論すぎますね。
かなり話が脱線していますが、企業が間違いを犯してはいけないのは、そもそも企業の犯す間違いにはそれこそ人の命や健康、財に悪い影響を及ぶ可能性がありますし、そこまでいかない場合も間違いを正すコスト(リコールなど)の関係上、実質的に間違いを訂正できない場合があるからだと捉えるのはどうでしょう? 先の個人の場合の後から訂正できないなら間違うリスクは背負うなというのと同じです。もちろん、企業の場合、それがすべてではないのでしょうけど。
時間差的な集合知では?
個人の話に戻すと、結局、間違うことを事前に必要以上、心配しなくていいのはあとで訂正する責任とその機能を負うことで、ある時点の間違いもすこし長い時間のスパンで見た場合、間違いは最終的に修正され、プラスのみが残る場合があるからです。集合知について書かれた本『「みんなの意見」は案外正しい』の中で著者のジェームズ・スロウィッキーは次のように書いています。
多様で、自立した個人から構成される、ある程度の規模の集団に予測や推測をしてもらう。その集団の回答を均すと一人ひとりの個人が回答を出す過程で犯した間違いが相殺される。言ってみれば、個人の回答には情報と間違いという2つの要素がある。算数のようなもので、間違いを引き算したら情報が残るというわけだ。ジェームズ・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』
結局、周囲とコミュニケーションをしていく中で、間違いが修正され、プラスの部分が残ることもあるのも、「算数のようなもので、間違いを引き算したら情報が残る」という集合知の場合と似たようなものではないかと思います。時間差的な集合知ですね。
もちろん、その場合もスロウィッキーが集合知を活かせる賢い集団の特徴として挙げている「多様性」「独立性」「分散性」「集約性」という4つの条件が満たされている必要があるように思います。
なので、間違いを指摘する側も単に「あげ足取り」のような指摘をしていたのでは「独立性」が失われますし、もともと上下関係やなあなあな関係がある中では「分散性」が確保できず、修正された最終的な考えが間違いはないが取り柄もないつまらない考えにもなってしまうでしょう。
結局は、発言~間違いの指摘~間違いの修正・ブラッシュアップというプロセスのくり返しが、よりよい考えをつくっていくのではないでしょうか? それこそがアウトプットを迅速にするのがよいと思える一番の理由のような気がします。継続的改善ですね。
今回、皆さんから意見をいただいたおかげで、あらためて自分が何をいいたかったかがわかってきた気がします。
ここからの発展形として「Web2.0のサービスはなぜベータ版なのか」ということも考えたのですが、それはまた別のエントリーで。
この記事へのコメント
takenoya
gitanez
ほぼ同意見かと。