間違えを受け入れられる寛容さ

間違えを恐れるあまり思考のアウトプット速度を遅くしていませんか?」がこんなに反響があるなんてまったく予想していませんでした。何が人気が出るかは、内容自体もさることながら、本当に運だとかタイミングの問題も大きいのだなとあらためて感じました。その意味でも、失敗を恐れずにアウトプットしてみることは必要だなということが実感できました。
いろいろ勉強になりました。皆さん、ありがとうございます。

すべてのコミュニケーションの場がメッシュ化したわけではない

さて、いろんなご意見のあった中で、トラックバックもいただいたAdamsky’s Sighさんの下記のような言葉は、企業内においてアウトプットをためらわせる大きな要因になっているのでしょう。

けれども、実際に全てのコミュニケーションの場がメッシュ化したわけではありませんし、情報の流れを階層構造に沿った形でしか認められない人がいるのも事実です。そして、タチの悪いことにそうした人がメッセージの質の「評価者」の立場に身を置いていることがしばしば見受けられ、またその評価が集団の構成員に別の形でフィードバックされる(あるいはそう思われている)ために、「臆病さ」を内面化してしまっている人がいるのではないでしょうか。

Adamsky’s Sighさんのおっしゃるとおりだと思います。残念ながらすべてのコミュニケーションの場がメッシュ構造(ネットワーク構造)化しているわけではなく、まだまだ多くの場でのコミュニケーションが昔ながらの階層構造に縛られています。

他の方のコメントにもありましたが、人が間違いを恐れずにアウトプットするためには、間違いに対して寛容さのある環境がなくてはむずかしいと思います。すべてのアウトプットが階層構造の上から下へと受け渡されるコミュニケーションの場においては、たとえ発言者が間違いを恐れなくても、上のレイヤーのどこかで必ずその間違いを恐れる人が出てくるでしょう。その評価が発言者に対して有益なやり方でフィードバックされるならまだいいわけですが、評価者が自分の立場を守るためだけに間違いの指摘を行うような場合、発言者が間違いを恐れるようになるのも当然だという気がします。

チャンスをつかもうとしていないのに、何故リスク・コントロールを行おうとするのか?

すべての場においてそうだというわけではありませんが、それでも多くの場ではこのようなコミュニケーション構造がいまだに働いてしまっているのは不幸なことではないかと思います。

間違えてはならない場は確かにあるし、間違えてもいいやなんてことはどんなコミュニケーションの場においても成立はしません。しかし、間違えを犯すことを責める(特に最終アウトプットではなく、単なる発言内容の間違えを責める)こと以上に、間違えを恐れて有益なアイデアの発言をつぶしてしまうほうがどれだけ企業にとってリスキーか?
個人であれば、誰かが自分の考えていたことを先に言ってしまったとしても、「俺もいつもそう思ってたのに」で済みますが、企業にとって他の誰かが自社内にもあったアイデアを製品として発売し成功してしまったときに「うちも考えていたのに」では済まされません。そして、そういうことが起こる原因が階層構造のうちに存在する個々の従業員の保身が原因だとしたら、企業にとってこれほど不幸なことはないのではないかと思います。

間違えに寛容であるというのは、発言全体の中で間違いが存在することよりもよいアイデアが存在するかどうかに重点をおいて評価を行うということではないかと思います。間違いを指摘するくらいなら誰でもできます。しかし、間違いを含む発言の中にチャンスを見出すことはなかなか難しいことです。それでも、むずかしいからといって単に相手の発言の間違いだけを指摘し、チャンスの芽をつぶしているなら、あなた自身のその発言自体が間違いです。そのことにどれだけの人が気づいているのでしょうか?

発言というのは先に発言した人だけに責任が生じるのではないということです。誰かの発言を聞いてそれに対してコメントをするならその発言にも同等の責任は生じます。そのコメントには間違いはないのか、と。誰かのブログにコメントする場合でもそういう責任が生じることがあることに気づいていますか? 間違いを指摘するあなたのコメントは、対象となるエントリーのチャンスをつぶしていないですか? それは先に発言した本人以上にあとからコメントするあなたの問題じゃないですか? それと同じようなことが企業内にもあるはずですが、そこにマネジメントの責任があることが意外と意識されていないことがあるように感じます。

そこにチャンスがなければいくらリスクを評価しても無意味なはずです。しかし、人の発言の間違いばかりを指摘する視点は明らかにチャンスを無視してリスクばかりを計算しているのではないかと感じます。そのような場は企業組織においても、個人間のコミュニケーションの場においても不幸なことだと感じます。

もちろん、成功すること以上に失敗しなかったことを評価するような企業風土が残っている会社もあるのでしょう。しかし、そんなやり方でこの先もそういった企業は社会に対して価値を生み出し、自社が利益を上げ続ける仕組みをまわし続けることができるのでしょうか? 僕にはよくわかりません。
チャンスをつかもうとして行動する中ではじめてリスク管理は意味をなすはずだと僕自身は思います。それが単なる間違い探しに陥ってしまっているとしたら、本末転倒というしかないでしょう。

たとえ、そうした企業が数多く存在しているとしても。
そして、そうした企業の仕組みもかつての成功の元で生み出されたことを忘れてはいけないとしても。
いまは過渡期であると考え、地道に、しかし、積極的に組織がすこしずつ一歩一歩でも変わっていける努力をひとりひとりが行っていくしかないんじゃないでしょうか?

 

この記事へのコメント

  • tom-kuri

    こんにちは。
    すみません枝葉末節なコメントですが、
    「間違え」じゃなくって「間違い」ですね、伝統的な日本語では。
    「AとBを間違える」とは言いますが、間違えを正す」とは普通使いません。
    (本文中はちゃんと「間違い」って書いてますね^^)
    2006年08月14日 17:23
  • gitanez

    >tom-kuriさん、

    そうか。間違いが正しいんですね。
    いつも迷ってました。
    これからは「間違え」ませんね。
    2006年08月14日 17:37
  • tom-kuri

    そそ、そうなんです。
    これが旧来の印刷媒体だと「事前に校正しておしまい」=完成度だけは高い、ってことになるんですけど。
    web2.0なnetの世界では「経過も含めて共有できる」ってことなんですよね~
    2006年08月14日 22:51

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