可能性に関する見積もりの意図的な誤謬

ダニエル・C・デネットは『ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化』の中で、可能性を考察する中で、まず論理的可能性、物理的可能性、生物的可能性、歴史的可能性という風に可能性を論じる際にフレームとなる領域を分ける必要があることを示しています。

可能性を見積もる際のフレーム

論理的に可能であっても、物理的には不可能な(存在し得ない)こともありますし、物理的には可能でも生物的には可能ではない(生きていない)こともあります。
馬に羽根が生えてペガサスのように飛べるようになることは生物的可能性としてはなくはないのでしょうけど、すくなくとも歴史的可能性としてはなかったわけです。
もうすこし日常的な話に落とし込むと、私たちが仕事をしていく中でも「技術的には可能ですが、コスト的(スケジュール的)にはむずかしいです」と言ったりすることがあるのも同じことです。

こんな風に可能性を論じる際にはどのフレームにおいて可能かどうかを判断しているのかを示さないと意味をなさない場合が多かったりします。
どのフレームに沿って可能性を論じているのかわかれば、可能性を高めるために必要なものも見えてきたりします。
先の仕事の例であれば、コスト(あるいはスケジュール)を調整すれば、実現の可能性は高まるわけです。

私は○○ができない

一方、世の中には、自分の可能性についていとも簡単に「できる/できない」の判断をする人がいます。
多くの場合、それは「私は○○ができない」という判断だったりします。
私にはそれは単なる言い訳、自己弁護に聞こえたりします。
普通、仕事であれば相手に対して、何の前提もなしに「できない」などとは言わないはずです(懸命なビジネスマンであれば)。
少なくとも「できない」ことの障害となっているのは何かを明確にした上で、相手とともにその障害を取り除くことを検討するか、その障害は取り除くことができない(むずかしい)のだからあきらめるよう促すかということをやるはずです。

しかし、世の中には「私は○○ができない」という人がいます。
いったい、それは何を根拠にして「できる/できない」の見積もりをはじいているのでしょうか?
どうも私にはそうしたことを公言する人が、自身の現在および将来のリソースの把握、可能性を高めるためにリソースを費やすことで得られるはずのものに関する予測、あるGOALを目指すために必要な工程およびそのスケジューリングやコスト把握などがまったくもってできていないのではないかと思うわけです。
あるいは、そもそもそういうことをやる気がないか、まったく自分が見えていないかのいずれかです。

そして、そういう人に限って自分が「できない」と公言することが「できる」人に対して、あたかもそれが「できる」のは生まれもってもった才能か運のように考える傾向があったりします。
残念ながらそんなことはまったくありません。
才能や運に見えるものは、所詮は単なるリソースあるいはリソースから生み出されたエネルギーでしかありません。
ある時点でその人がもつリソースは、それ以前の別の運動によって得たリソースであったりする場合が非常に多いはずです。
つまり、簡単にいえば、それなりに努力をして得てきたものであるわけです。
なので、私には「私には○○できない」と公言されると、単に努力を怠っている言い訳に聞こえるのです。あるいは、単に臆病なだけか。
もちろん、人にはいろいろ事情があるのですべての「できない」にそう感じるわけではないということも付け加えておきますが。

無数に存在するパラメータ、そして、その可能性

ここまで一言でリソースと言ってきましたが、そのパラメータはそれこそ無数に存在するわけです。
論理的なものもあれば、物理的なものもあるし、生物的なもの、歴史的なもの、金銭的なもの、技術的なものとあるわけです。
こうした無数のパラメータの組み合わせ(乗算)はそれこそ無限大に近いくらい存在するわけです。
そう考えるとあることが「できない」と述べることに意味があるとは私には思えません。
「できない」と述べていることのすぐ近くには、それに非常によく似た「できる」ことの可能性がこれまた無数に存在しているはずですから。

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