声の文化と文字の文化/ウォルター・J・オング

ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』。原題は"Orality and Literacy"。
当ブログではここ最近何度も取り上げてきたこの1冊を今日はあらためて紹介してみようと思います。



著者自身が「序文」で書いているように、この本の主題はオラリティー(声の文化)とリテラシー(文字の文化)の違いを明らかにすることです。
あるいは、すでに文字があることやそれを使って生きるということに親しみすぎてしまって、もはや文字がない生活や思考がどういうものなのか想像もできなくなっている僕ら現代人にも、文字のない声の文化における思考や言語表現がどのようなものであるかを知れるようにすることが本書の主題だともいえます。

実際、文字を使って思考し生きることに親しみすぎてしまっている僕らは、文字をもたない人びとがどれほど自分たちとは異なるかを想像することもできません。

例えば、こうやってブログを書くことに関してもそうです。文字がなければブログが書けないのは当然としても、実は文字がなければ文章でそれを表現できないどころか、同じような内容で考えることさえできないことを僕らは見過ごしています。

僕自身、実際、文字をたよりにせずに、いつも書いているように長文のブログと同じ内容を話せるかといわれると絶対無理だと思います。似たような事柄を含む話はできると思いますが、ブログで書いているような文体で話をすることはまず不可能です。よく実際に会ってみるとブログを読んでいる印象と違うと言われることがありますが、僕からすればそんなことは当たり前なんじゃないかと思うのです。文字で書くことと声で話すことはおなじようにことばを扱うのでもまったく修辞法が異なると思うし、修辞法が異なれば思考のスタイルは変わって当然だと思うからです。
とにかく僕はブログを書くように話すことはできません。何よりブログでやるような引用という方法を採ることができません。それは単に他人の言葉を記憶から正確に繰り返すことだけができないというのではなくて、たとえ思い出そうとする言葉が自分が過去に発したことであっても正確に反復することも不可能という意味です。

かつて歌われたもろもろの歌に対する口誦詩人の記憶力は活発である。「10音節の詩行を1分間に10行から20行」歌うユーゴスラヴィアの吟遊詩人に出会うのは「めずらしいことではない」。しかし、録音された歌をいろいろ比較してみると、それらは、韻律のうえでは規則的であるけれども、おなじやりかたでは二度と歌われなかったことがわかる。基本的には同一のきまり文句とテーマが何度も使われていた。しかし、そうしたきまり文句やテーマは、たとえ同一の詩人によって歌われるときでも、聴衆の反応、詩人の気分、その場の雰囲気などの社会的、心理的要因にあわせて、歌うたびごとに違ったふうに縫いあわされ、「綴りあわされた」のである。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

オラリティーの世界に生きる詩人は同じ歌を二度と歌わない。
もちろん、正確に同じ内容を歌うことは文字という記録の道具のない状況で記録のみを使って歌うことの限界もあってむずかしいというのもあります。ですが、それ以上に、正確に同じ内容であることに意味=価値があるのは、あくまで文字という記録の道具があることを前提にしているということを僕らは忘れがちです。同じように歌えないと同時に、歌う意味もないのです。吟遊詩人が同じように歌えない歌を、どんな聞き手があれとこれとは違うだとか同じだとか正確に判定することができるでしょう。
正確に同じであるということに、そもそも意味がないのです。

前のものと今のものが同じであるかどうかは、ある程度の長さをもったことばが対象になるのであれば、もはや文字の助けを借りなくては不可能な判断であるということを、文字に慣れ親しみすぎている僕らはわかっていません。引用のように同じことばを正確に反復することに意味を見出すのは、書き言葉以降、もっと言えば同じ本の私有が可能になった印刷技術以降の文化に生きる人びとだけなのです。

こうした例をはじめとして、僕らはあまりに文字があることに慣れすぎてしまっているがゆえに、自分たちの思考をどれだけ文字の影響を受け、それに限定しているかがわからなくなってしまっています。そうした自分たちの生活や思考に対する文字の影響を知るためにも、本書で明らかにされる文字のないオラリティーの世界で生きる人びとの思考に目を向けることは非常に価値あることだと僕は思っています。いや、今後、テキスト以外の音や映像によるコミュニケーションがますます盛んになる情報空間においては、こうした声の文化的なものも予想される以上、本書は必読の一冊だと思います。

そんな一冊を以下ではもうすこし紹介していきます。


記憶できるような思考を思考する

声の文化=オラリティーの世界を考える上で、何よりまず認識しておきたいのは、その世界においては、ことばは音声に限られ、そうであるがゆえに、ことばは表れたかと思ったと同時に消え去る儚い存在であるということです。人は声で話されることばを、文字として書かれたことばのように保持しておくことができません。保持できないのですから、ことばを並び替えて別の意味を創出させるようなことも、複数のことばを比較して分析するようなこともむずかしいはずです。
音声のみで考えるということは、文字という記録ツールを使って考える僕らが慣れ親しんでいる思考とはまったく別物です。

声の文化のなかで生きる人が、ある1つの複雑な問題を考えぬこうと決心し、とうとう1つの解答をなんとか表現できたとしよう。そして、その解答自身もわりに複雑で、たとえば、2、300語でできているとしよう。この人はこんなに骨身をけずって練り上げた言語表現を、あとで思い出せるように、どうやって記憶にたくわえておくのだろうか。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

まず複雑な問題を考えるためには、それを考えるための素材としての知識をことばとしてもっている=記憶している必要があります。知っているということは思い出せるということであり、考えるためには、この思い出せる知識が素材としてある程度必要になります。
知っていて思い出せる対象が現実世界に存在する具体的な事物であれば、それを目にすることで思い出すことができます。ただ、具体的な事物ではない、抽象的な事柄に関する知識となるとそうはいきません。もちろん、文字があれば、かつて自分や他人が思考した結果の抽象的な思考そのものも、書かれた文章を読んでふたたび思い出すこともできますが、文字がない場合、抽象的な思考そのものを自分自身で記憶しておく必要がある。果たして、それをどう行うか?というのが上の引用された箇所での疑問です。

それに対する1つ目の解答は、話し相手をもつことだとオングは言います。「声の文化においては、長くつづく思考は、人とのコミュニケーションに結びついている」と。これは文字の文化に生きる僕らにとっても身に覚えのあることではないでしょうか。他人と話すことで自分の考えが明晰になるということは誰しも経験したことがあるのではないかと思います。

しかし、それでもまだそうやって話し相手のおかげで浮かんだ考えをどう記憶に残すのかという問題は残ります。では、どうやって思考の結果を記憶に残すか?
それに対するオングの答えは僕らには意外すぎるものです。その答えは「記憶できるような思考を思考する」なのです。

声の文化では、よく考えて言い表された思考を記憶にとどめ、それを再現するという問題を効果的に解くためには、すぎに口に出るようにつくられた記憶しやすい型にもとづいた思考をしなければならない。(中略)強いリズムがあって均衡がとれている型にしたがっていたり、反復とか対句を用いたり、頭韻や母音韻をふんだり、〔あだ名のような〕形容句を冠したり、その他のきまり文句的な表現を用いたり、紋切り型のテーマごとにきまっている話し方にしたがったり、誰もがたえず耳にしているために難なく思い出せ、それ自体も、記憶しやすく、思いだしやすいようい型にはまっていることわざを援用したり、あるいは、その他の記憶をたすける形式にしたがったりすることである。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

考えたことを忘れないようにするためには、そもそも記憶しやすいことばで思考すること。そのための方法がここでは列挙されていますが、僕がこれを読んでまず思い浮かべたのは、多くの枕詞や反復表現が多い万葉の歌でした。枕詞はここでいう「〔あだ名のような〕形容句を冠した」きまり文句にほかなりませんし、対句表現が多いのも同様です。

僕らは歌/詩というとどうしても実用とは離れた美的/芸術的な表現であるかのように捉えがちですが、声の文化においては実用とはかけ離れた存在などでは微塵もなく、むしろ実際の生活の文脈とは切っても切り離せない表現=思考の方法だったことが本書を読むとわかります。

声の文化に生きる人びとの思考と表現の9つの特徴

表れた瞬間に消え去る儚い音声で「記憶できるような思考を思考する」声の文化に生きる人びとの思考や表現形式はそれゆえに、僕らのそれとは大きく異なります。

オングは、声の文化に生きる人びとの思考と表現の特徴として、次の9つを挙げています。

  1. 累加的であり、従属的ではない
  2. 累積的であり、分析的ではない
  3. 冗長ないし「多弁的」
  4. 保守的ないし伝統主義的
  5. 人間的な生活世界への密着
  6. 闘技的なトーン
  7. 感情移入的あるいは参加的であり、客観的に距離をとるのではない
  8. 恒常性維持的
  9. 状況依存的であって、抽象的ではない

1つ1つ説明する余裕はないので、いくつかピックアップします。

まず4番目の「保守的ないし伝統主義的」というのは、何より声の文化のなかではあらゆる概念化された知識が声に出して繰り返していないと消えてなくなってしまうということからくるものです。大事な事柄は何度も繰り返して口に出される必要がある。そうしなければ、それはなかったものになってしまいます。とはいえ、声の文化に創造性がないということにはなりません。先に吟遊詩人がその場の状況、その場の人びとにあわせて歌を綴りあわせるという例を出しましたが、口頭で語られる物語の創造性はまさにそれと同じで新しい話しのすじを考え出すことにあるのではなくて、「ほかならぬこのとき、この聴衆と、ある特別の交流をつくりだすということにこそ、それはある」のだとオングはいっています。それは日本の茶の湯における一期一会の創造性と同種のものであるはずです。
印刷技術や大量生産以降のような正確に同じものの反復に意味=価値がない文化においては、新しいすじを考え出す=イノベーションするということには何の価値もなく、その場における特別な交流が生まれるかどうかのほうにより大きな価値があるのです。

次に5つめの「人間的な生活世界への密着」。オングは「書くことは、知識を、生活経験から離れたところで構造化する」といっています。洗練された分析的なカテゴリーも書くことに依存し、それをもたない声の文化はすべての知識を自分たちの人間的な生活世界に密接に関係づけるようなしかたで概念化=ことば化するしかありません。僕らはあらかじめ知識としてカテゴリーを与えられることで自分たちの生活とは無関係なことまで思考の範囲に入れることができますが、声の文化に生きる人びとはそうした生活と切り離された抽象的なカテゴリーをもたないがゆえに、あらゆる事柄を生活のなかで身近な「Aさんの牛」「Bさんの家」といった形で記憶させ思考させることになるのです。
そして、この生活世界への密着はは、7つめの「感情移入的あるいは参加的であり、客観的に距離をとるのではない」ことや9つめの「状況依存的であって、抽象的ではない」ことにも深く関連します。
そして、「抽象的ではない」という点では、オングは声の文化は次のような事柄にまったく関連をもたないと書いています。

たとえば、幾何学的な図形、抽象的なカテゴリーによる分類、形式論理的な推論手続き、定義、また、包括的な記述や、ことばによる自己分析さえもそうである。これらの項目はすべて、思考そのものではなく、テクストによってかたちづくられた思考に由来するのである。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

自己分析さえもが文字の文化に生きる人びとの特殊な思考なのです。
「自己分析ができるためには、状況依存的な思考がある程度うちこわされていなければならない」。
もちろん、現れた瞬間消えてしまう音声によって思考を行わなくてはならない声の文化に生きる人びとにとって、音声が実際に響く生活の状況から自らを引き離すことなどできるはずもありません。それはあくまで言葉が文字として状況に依存せずに維持できるようになってはじめて可能になる態度なのです。

書かれた文字、印刷された文字へ

そんな話し言葉の世界に生きていた人類はあるとき、声としてはかなく消え去る運命にあったことばを記録として残す手段としての文字を手にします。
マクルーハンは「すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである」と言いますが、文字というメディアを手にした人類に対して、オングは「どんな発明にもまして、書くことは、人間の意識をつくりかえてしまった」といいます。

オングは、プラトンが書くことに対して嫌悪を表明していることを紹介しつつ、しかし、プラトンが実践していた哲学的思考こそが、声の文化にはありえなかった抽象的で客観的で、何より「イデア」というものを持ち出しているように生活世界からの密着とは程遠い思考であったことを指摘しています。

『パイドロス』や『第七書簡』のなかで、プラトンは、書くこと​に深刻な留保を表明していた。書くことは、知識を処理する手段と​しては機械的で非人間的であり、〔書かれたものは〕尋ねられても​即座にこたえられず、記憶力をそこなわせるものだ、というように​。しかしそれにもかかわらず、われわれがいまや知っているように​、プラトンがそれを求めて戦った哲学的思考とは、この書くことに​全面的に依存していたのである。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

ただ、古代ギリシア以降、人類が文字の文化に移行して、それまでにはなかった哲学的な思考が生まれても、それは以前、僕らの印刷以降のエレクトリック文化とはまったく異なるものでした。

というのも、文字が生まれ、手書き本が書かれ読まれるようになっても、その文字はあいかわらず声としての言葉を呼び覚ますきっかけにすぎないと捉えられていたからです。
昨日の「ホメロスらの詩的作品が「ある特殊な状況のもとでのある特殊なできごと」であるのと全く同じようにユーザーインターフェイスとのインタラクションも同様にコンテクストに依存する」という記事でも、中世のスコラ哲学者トマス・アクイナスが口述筆記で自身の著作を綴っていたことを紹介しましたが、書くことも口述筆記のような形で行われれば、読む行為も必ず声に出して読むという形で行われていたのが印刷以前の手書き文字の時代であったといいます。

われわれは、読むことは視覚的な活動であり、その活動がわれわれに音を指示すると感じているのに対し、印刷の初期の時代の人びとは、読むことは、まず第一に聞く過程であり、視覚はたんにそのきっかけをつくるにすぎないと、なおも感じていた。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

印刷技術以前、そして、印刷本が生まれてまもなくの時代まで、あくまでことばは声だったのです。外世界に音声として響いてはじめて、それはことばとしての意味を成したのです。
それが外世界に響く音ではなく、人びとの内面で静かに鳴るこころの声になったのは、印刷本が普及し、人びとが本を黙読しはじめてからでした。かつて、複数人が集まって声を出して読まれた本は、それぞれが私有できるようになった印刷本を誰にも読むのを邪魔されない個室で黙読される形に変わったのです。

印刷物によって、書くことが人びとのこころに深く内面化されるまでは、人びとは、自分たちの生活の一瞬一瞬が、なんであれ抽象的に計算される時間のようなもののなかに位置づけられているとは思っていなかった。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

そして、その時、ことばは紙面にレイアウトされる物的な存在となり、ことばであらわされる概念もまた、実生活の文脈とは別に本を所有する人が自由に編集可能なものに変わったのです。

正確に同じものを繰り返せるということ

はじめにも紹介したように、声の文化に生きる吟遊詩人たちもその詩の聴衆たちも詩が正確に同じように繰り返されることに意味を感じたりしませんでした。

正確に同じものを繰り返すことに意味が生じたのは、まさに印刷技術によって同じ本を複数生産できるという大量生産の第一号商品としての印刷本が生まれ、人びとに受け入れられたからでした。
それはルネサンス期にはじまる変化ですが、その「正確に同じものを繰り返すこと」が可能になったという変化は、文字が哲学的思考を生んだのと同じように、人類には新しい思考形式を可能にしたのです。
その新しい思考こそがほかでもない近代科学的思考です。

正確に反復できる視覚情報があらたに生まれ、そのことによって生じた帰結の1つが近代科学である。正確な観察は、近代科学とともに始まったわけではない。はるか昔から、たとえば、猟師や多種の職人が生き残るためには、正確な観察がつねに欠かせなかった。近代科学をそれ以前のものと区別するのは、正確な観察をことばによる正確な表現と結びつけたということ、つまり、注意深く観察された複合的な事物や過程を、正確なことばで記述したということである。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

ここでオングが指摘しているように、正確になったのは観察眼のほうでなく、その結果の表現の正確な反復だったのです。同じ条件で同じ方法で行ったのであれば誰が行っても同じ結果が出ることを求める近代科学の実験の思想などはまさにこの表現を正確に反復することが可能であることを前提としたものです。そして、この発想はT型フォードに代表されるような初期の大量生産品の画一性にもつながっていくことなどは、マクルーハンも同様の指摘をしていますが、オングもまた本書で印刷技術により人びとの思考や表現への影響として、そうした点を指摘しています。

このあたりの印刷技術がもたらした変化に関しては、次に紹介しようと思っているバーバラ・スタフォードの『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』に詳しいので後日あらためて書こうと思います。

というわけで、あまり長くしまってもいけないので、ほんの一部しか紹介できないことが残念なほど、これからの情報技術と人びとの生活や思考の関係を模索しデザインしていく上では知っておくべき事柄が満載な一冊です。
くりかえしますが、ぜひぜひ手にとって読んでいただきたいと願います。



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