ホメロスらの詩的作品が「ある特殊な状況のもとでのある特殊なできごと」であるのと全く同じようにユーザーインターフェイスとのインタラクションも同様にコンテクストに依存する

前回「おしゃべり化する社会のなかで、UIのデザインは人間が離れた場所から目を向けるグラフィカルな視覚重視のものから、人が内部に参加する形でそれを体験する建築的なものへと移行する」を書いたのが、7月6日の土曜日なので、すでに10日以上が過ぎました。ブログを書かない日々がどんどん過ぎ去っていくのを感じて、おやおやと思っています。

あいかわらず「声の文化」という僕たちにとっては非常にオルタナティブな環境に生きた人びとの思考に驚きを感じつつ、人ともの、あるいは、人と情報のあいだのインタラクションの可能性としては、印刷以降の視覚偏重思考を超えたものを「声の文化」的なところから考えることができそうだなと感じつつも、なかなかそれをこまめにブログを書いていくことができなくなっていて、ちょっと残念。
その分、Facebookページのほうに小分けにして、このあたりの考えを書き出してもいるので、気になる方はそちらも見ていただいて、どんどんコメントください。


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さて、そんな風にブログを書かずにいるあいだにも読書のほうは進んでいて、ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』を読み終え、メアリー・カラザースの『記憶術と書物―中世ヨーロッパの情報文化』を読み始めています。

これがまた、おもしろい。

記憶術という点では「記憶術/フランセス・A・イエイツ」であったり、中世ヨーロッパの思想という点では「中世の覚醒/リチャード・E・ルーベンスタイン」や知はいかにして「再発明」されたか/イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートンといったあたりともつながっているのですが、それよりも僕はマクルーハンやオングの流れで、印刷以前の人びとのものの認識の仕方や世界の捉え方ってどうだったんだろう?という観点から興味深く読んでいます。

ジョルジョ・アガンベンが『事物のしるし 方法について』という本のなかで、人文科学の最近の流れのなかで認知科学的なものが主流となっている傾向に対して、方法のコンテクスト性といった視点から警鐘を鳴らしています。
僕もまったく同様のことをずっと感じていて、認知に用いる方法が変われば人間の認知などというのは大きく変わるのに、そのことを視野にいれずに現代の人びとの認知のみを調べて認知のなんたるかを議論する傾向の強い認知科学には疑問を感じているし、それを土台にした人間中心設計(HCD)やHCI的な考えも再考の余地が大いにあると考えています。ようするに、マクルーハンやオングらが民俗学的な視点も踏まえつつ、印刷文化以降の人間の思考や感覚の特徴を括弧に入れ、それが印刷というメディアがもたらす活字文字文化がインストールされた文化の特徴であって、それをもって人間そのものの特徴と考えるのがどれだけおかしいかを示してくれているのに、それを無視して、現代の人間の認知傾向だけをたよりに情報システムだのユーザーインターフェイスだのを考えるのは、あまりに間抜けすぎると感じています。

ということを思っている人が書いているのだという前提で、今回も「声の文化」の特徴についてすこしまとめてみようと思います。

手書き本の文化のなかでは、本を、1つの対象物というより、一種の発話として、つまり、会話のなかでの1つのできごととして見るような感覚がずっと保たれていた

というわけで、前回の「おしゃべり化する社会のなかで、UIのデザインは~」でもすこし書いた「かつて言葉は記号ではなく、それゆえモノにタイトルとしての言葉がつけられることはなかった」という話の続きから。

言葉を記号として扱うことなかった「声の文化」や印刷以前の手書き文字の文化においては、ことばは何より音声であり、書かれた文字も声に出して読むためのものでした。ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』のなかの、こんな一文が「声の文化」やそれに続く印刷以前の写本の時代に生きた人びとと現在の僕らとの、言葉と物の関係に対する感覚の違いを際立たせてくれます。

手書き本の文化のなかでは、本を、1つの対象物というより、一種の発話として、つまり、会話のなかでの1つのできごととして見るような感覚がずっと保たれていた。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

実際、スコラ哲学を代表とする中世に書かれた本を読むと、その記述形式が話し言葉で行なわれる議論の形式をとっているのがわかります。それは会話的であるがゆえに、冗長な繰り返しも見られます。実際、それらの本は口述筆記で書かれたものがほとんどだったといいます。

メアリー・カラザースは『記憶術と書物―中世ヨーロッパの情報文化』のなかで、スコラ哲学の大家であるトマス・アクイナスが口述筆記で一度に3つの本の内容を筆記させたという驚くべき話を紹介しています。筆記者が、アクイナスがまるで本を読むかのように書くべき内容を声にして出したことを驚いたという話なのですが、そもそも、印刷以前の中世からルネサンス初期にかけては、アクイナスがそこにない本を読むように自分のこれから書かれるべき本の内容を口にしたのと同様に、本は声に出して読まれるものであったのです。そして、それは知識が物質のように蓄えられている空間というよりも、声や発話を呼び覚ますきっかけとして認識されていたのであり、だからこそ、そのきっかけもなしに知識を呼び覚ますことができるアクイナスの行為が驚かれたのです。

書物は、必ずしもテキストと同じものではない。「テクスト」とは、人間が文字による作品を作る材料である。私たちにしてみれば、テクストは必ず書物の形をとっているので、書物とテクストの区別があやふやになり、失われてさえいる。しかし、記憶文化の中では、「書物」は「テクスト」を覚える手段のひとつにすぎず、忘れがたい言行を記憶に供給し、また記憶に合図を送るものだった。

とした上で、カラザースはアクイナスの「物事は記憶を助けるために、書物という物に書きとめられているのである」という言葉を紹介しています。中世までの記憶はそもそも僕らが考える、知っていることの復唱ではなく、記憶されたさまざまな知を用いて発見的な想起を行うことと考えられていたのです。

カラザースはさらに記憶​術の大家のひとり、アルベルトゥス・マグヌスが「物事は聞くだけ​では完全に自分のものにならない。見ることでしっかり印象に残る​」と言っているのを紹介しつつ、記憶術が文字がまったくなかったギリシア以前の文化のみならず、手書き文字の写本があった中世においても重視され、そこでその術における視覚的なものの重要性を指摘しています。記憶術が視覚を重視する傾向があるのは「記憶術/フランセス・A・イエイツ」で古代における記憶術が記憶の場として建築を用いていたことからもうかがい知ることもできます。

ことばを記号として考えてなんの疑問も感じないわれわれの態度は、すべての感覚、さらにはすべての人間的な経験を視覚に類似したものと考えてしまう傾向にもとづいている

記憶術が視覚をたよりにしていたという事実は、現代の僕らが本に知識が記録されていると感じるような意味ではないことをあらためて理解しておくことが必要です。

というのも、カラザースが「その当時の記憶というのは、訓練された記憶、十分に発達した教授法に即して教え込まれ、仕込まれた記憶を意味していた。そして、このような訓練された記憶は、文法や論理学、修辞学などと並んで、初歩的な言語技能の一部とされていた」という記憶を効果的に用いるための記憶は、先にも紹介したように、記憶されたさまざまな知を用いて発見的な想起を行うためのものでした。

かれが思いだしているのは、記憶されたテクストではない。なぜなら、そんなものはないからである。また、逐語的なことばのつながりでもない。かれが思いだしているのは、他の歌い手たちがかつてそれを歌い、かれがそれを聞いたところの主題やきまり文句である。かれはそれをいつも違ったふうに思いだす。つまり、特定の場で、特定の聴衆のために、自分流にそれを朗誦する、つまり、縫い合わせる。「歌は、かつて歌われたもろもろの歌の思い出なのである」。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

ホメロスなどの口承時代の詩人たちにとって思い出すべき「記憶されたテクスト」などはそもそもありませんでした。彼らの記憶にあったのは、自分以前に他の詩人が歌った歌の記憶です。彼らはそれを主題やきまり文句として記憶したのであり、詩全体を同じものとして記憶しようとは考えませんでした。いや、そもそも、詩全体の同一性など、つかみとることも、それに意味を見出すこともなかったのでしょう。彼らはそれぞれ自分なりに、かつての歌の思い出を歌ったのです。

そこでは僕らが記憶と聞いて想像するような「同じものの想起」は求められていなかったのです。いや、より正確にいうなら、僕らのように同一のものの繰り返しを求める価値観自体が、印刷文化以降にあらわれたものです。話しことばではもちろん、手書きで書かれた本でさえ、同じものは2冊としてなかったのですから。本が物として認識されるようになったのは、それが物のように同じ存在が2つにある状態が現実となったからなのでしょう。
そして、本が物として認識されることで、それに名前が付けられます。

印刷とともにタイトルページが現れることは、すでに見たとおりである。タイトルページとはレッテルなのである。それは、本を一種のものないし対象物と見る感覚をあらわしている。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

こうしたもののレッテル=ラベルとして言葉を使う傾向、「ことばを記号として考えてなんの疑問も感じないわれわれの態度は、すべての感覚、さらにはすべての人間的な経験を視覚に類似したものと考えてしまう傾向にもとづいている」とオングはいいます。そして、続けて、そのような傾向は、声の文化から手書き文字の文化に移行する中で目立つようになり、活字文化やエレクトロニクス文化を経ていっそう顕著になったものだというのです。

反イリュージョニズムの立場は17世紀末フランス懐疑派の自由主義の伝統に根を持っていた。フォントネルのデカルト的な懐疑の知が働いて、やがて18世紀後半にはどうしようもなくはっきりするはずのある重要な区別が浮き彫りになる。彼は深い専門家的観察と上っつらの讃嘆というものを区別した。いかにも魅惑的という現象に目を止めるぐらいのことなら、舞台の上の驚異や奇跡を眺めるのと同じく、「一種の魔術」なのであって、深い理解など何も必要ない、と。

バーバラ・M・スタフォードが『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』で詳述している18世紀後半にあらわれる「どうしようもなくはっきりするはずのある重要な区別」はまさに、視覚偏重のプロフェッショナルな観察〜分析をよいものとして浮かび上がらせる代わりに、聴覚/触覚的なものや言葉と手を握らなかった曖昧な視覚的表現を悪質なもの、低俗的なものとして区分する価値観を定着していく背景には、まさにこの印刷技術がもたらした、あらゆるものを同じ空間的フォーマットにおさめてしまう印刷レイアウト的な感覚が大きく影響しているのだといえます。

時間は、カレンダーや時計の文字盤のうえで空間のようにあつかわれるならば、手なずけられるように見える。しかし、これは時間を時間でないものにしてしまうことでもある

声であり音であったことばは、印刷本の上で物のように配置されるものにとって変わりました。

音は時間のなかのできごとであり、「時間は歩みつづける」。時間はうむことなく歩みをつづけ、そこにはどんな停止も分割もない。時間は、カレンダーや時計の文字盤のうえで空間のようにあつかわれるならば、手なずけられるように見える。つまり、一見、たがいに隣接している分離した単位に分割されているように見える。しかし、これは時間を時間でないものにしてしまうことでもある。現実の時間はけっして分割されず、中断されずにつながっている。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

時間はカレンダーや時計の文字盤のうえで視覚的に空間的に―かつ静止した状態で―表現された時から、把握しやすくなると同時に、本来の時間がもつうつろいやすく立ち止まらない性質を失います。時間は時間がもつ本来の動的な性質を殺して空間的に静止されてはじめて、僕らが理解しやすい状態―つまり手なずけた状態―にできるのです。

同じことが、言葉とものの関係にもいえるのです。声としてのことばは時間と同様うつろいやすく、けっして静止した視覚的な現象としてとらえられるものではありません。声の文化の詩人ホメロスが、ことばについて語るとき、「翼をもったことば」という常套句を用いるように、ことばはたえず動いていて、もののように世界に縛られることはないと考えていたのが、文字以前の人々のことばに対する感覚でした。

その感覚が言葉が印刷技術によって本の上に固定されるようになって大きく変化したのです。そして、言葉はレッテル、ラベルのように物にはりついた記号となり、僕らは言葉を視覚的に追いかけるだけでそのラベルやレッテルが指し示すものに実際に触れているかのような錯覚を受け入れられるヴァーチュアルな感覚を身につけたのです。これはとんでもなく大きな飛躍だといえるでしょう。

詩的作品の独創性は、この歌い手あるいは語り手が、この瞬間、この聴衆に対してかかわる、そのありかたのうちにある

では、僕らのようなヴァーチュアルな感覚を身につける前の、書き文字文化までの社会に生きる人びとにとって、ことばがものを指し示す記号ではないとしたら、ことばは何との関係で語られたのでしょう。

それは「状況」だといえます。

詩をとりまいている状況からその詩を切り離すなどということは、声の文化では想像もできない。声の文化では、詩的作品の独創性は、この歌い手あるいは語り手が、この瞬間、この聴衆に対してかかわる、そのありかたのうちにあるのだから。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

物のように空間に固定された視覚偏重な感覚をもたない声の文化に生きる人びとにとって、音声である会話として現れては消え去ることばというのは、僕らが五感すべてを通して感じる状況やそこでの行動、イベントと同じようにアクティブなものだったはずです。
それが行動やイベントなのであれば、それはその場のコンテクストに依存するのは当然でしょう。それが舞台で演じられる劇中の行為や台詞であろうと、それはその劇中のシーンと強く結ばれているのであって、声や行為を写真のように静的な状態に切り取ることはできません。

まさに、これはインタラクティブシステムのための人間中心設計において、コンテクスト・オブ・ユースが重視されるのとまったく同じであることに皆さんは気付くでしょうか? 静的な視覚ではなく、声や行動が問題になった際には、人びとがまわりの世界(のインターフェイス)と接する状況そのものが、人間の感じる価値=意味に大きく影響を与えるのです。

先の引用に続けて、オングはこんな風にも言っています。

詩的作品は、もちろん、ある意味で、ある特殊な状況のもとでのある特殊なできごとであり、他の種類のできごととは区別される。けれども、詩的作品の目的ないし結果が、たんに審美的なもの[つまり、実生活から離れて鑑賞されるもの]にすぎないことはめったにない。叙事詩を口頭で演じ語ることは、同時に、たとえば、祝祭の行為としても、パイデイアつまり若者のための教育としても、集団の一体性を強めるためにも、また、あらゆる種類の伝承の知識を生き生きと保つやりかたとしても、役立つことができる。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

これを読んでもまだコンテクスト・オブ・ユースとの関連性にピンと来ないのであれば、HCDのことなどは忘れた方がいいw
「詩的作品は、もちろん、ある意味で、ある特殊な状況のもとでのある特殊なできごと」であるのとまったく同じ意味で、ユーザーインターフェイスとのインタラクションは「ある特殊な状況のもとでのある特殊なできごと」なのであり、その「目的ないし結果が、たんに審美的なもの[つまり、実生活から離れて鑑賞されるもの]にすぎないことはめったにない」のです。

まさに、僕はこのような意味で、印刷技術やそれにともない生じた大量生産文化がもたらした視覚偏重文化とは異なる、話し言葉や手書き文字文化の人びとの感覚に、現代そして今後のインタラクションデザインを考えるためのヒントがあると考えているのです。
そんな意味で、最近は「おしゃべり化する社会のなかで、UIのデザインは人間が離れた場所から目を向けるグラフィカルな視覚重視のものから、人が内部に参加する形でそれを体験する建築的なものへと移行する」や「事件でありできごとである話しことばでは人は客観的で分析的な思考をするのがむずかしく、メタ認知を働かせて研究やデザインをすることができない」という記事は書いているし、これからものんびりとこのあたりのことを考えていくのでしょう。



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