Web2.0:進化などしなくても評価は変わる

なんかごっちゃになってないだろうか? ちょっとそんな風に思うわけです。

だからWeb2.0になってユーザーの力が強まったとか「総表現社会」が来たとかいうのは、錯覚である。むしろ母集団が増えるほど、大部分のユーザーは受動的になり、マスメディアに近づくのだ。

母集団が増えれば大部分のユーザーは受動的になるという傾向があるというのは、経験知的にもそうだという気がするし、COULDのヤスヒサさんが紹介してくれている1%ルールなんてデータもあったりします。

増えた母集団の定義

しかし、増えた母集団というのを、そもそもどう定義するのかで見え方(導き出される結論)は換わってくるのではないかと感じます。
例えば、単にインターネットユーザーをいう括りを母集団として定義するなら、上記の言葉は成り立ちます。でも、増えた母集団をブログやSNSで発言している人の数、しかも、単なる消費者ではなく、ビジネスブログを書いている経営者や従業員も含めたらどうなんでしょう?
それは果たして明らかに数を限定できるマスメディアに近づくと言えるのか?
「総表現社会」というのは誇張でも、表現者(発言者)の母集団が増えていて、かつ、そのことで受動的なユーザーの選択肢も増えているのは、本当にマスメディアに近づくことなんでしょうか?

「ウェブの「先史時代」を知ることは、今後の進化を予測する上でも重要だ」と僕も思うし、「インターネットは、変わっているようで変わっていないのである」というのも納得はできます。
しかし、「総表現社会」だとか、「Web2.0とはCGM(消費者生成メディア)のことである」だとかの錯覚自体が以前には存在しなかった変化であるということが忘れられている気がします。
総務省の調査によれば、ブログやSNSの登録者数はそれぞれ800万、700万を超えているという数値があるわけです。
この数値をきちんと把握している人は多くないにしても、その数の多さを感覚的に感じている人は多くなっていますし、その数が増えていることの影響を実際に自分でブログやSNSをやっていて肌で感じ取っている人は少なくはないと思うのです。
そして、それがマスメディアから得られる情報を受けるときとは違う感覚のものであるということも。

進化という変化と評価の変化

インターネットが実際に何なのかということも場合によっては意味がありますが、それは必ずしもアプリオリに確定された意味を持つわけではないと思います。
それは他のどんなものに対する評価でも同じように。
時には実際にそのものが変化することより、そのもが変わらなくてもそれに対する人々の評価が変化することのほうが大きな意味を持つこともあると思うのです。
さらにいえば、自分自身が変化することよりも、他人の評価や考えを変化させることのほうがどんなにむずかしいか。それを思えば、池田さんはウェブの先史時代と現在の違いの半分しか論じていないように感じました。

大体、人間なんて生物自体がここ何十万年も進化なんてしてないはずです。
ウェブ進化論なんて安易に「進化」なんて言葉を使うから誤解や錯覚は生まれたのかもしれません。
しかし、そもそも形態の変化なしに、誤解や錯覚が新たな文化や消費を生み出すことなんて、それこそ人間の歴史の中でたぶたび繰り返されてきたことではないかと思うんです。
そう。対象が変化しなくても、対象を利用する人たちの評価や行動そのものが変われば、その対象をめぐる環境は変化します。
それでもインターネットは変わっていないといえるのかというのが僕の疑問だったわけです。

ニュートンとライプニッツが、どちらが最初の微分積分学にたどり着いたかで争っていたのは、よく知られた事実だし、ニュートンが、重力の法則の発見では誰に優先権があるかで同時代の人と争っていたことも、すぐに思いつく。けれども、かつてシェイクスピアが生きていなかったら、他の誰もシェイクスピアの演劇や詩を書くことはなかっただろう。
ダニエル・C. デネット『ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化』

これは科学に比較した場合の文学や芸術の優位性について述べているのではなく、そこには2つの違いの認識、可能性の種類に関する2つの違いについて述べているのだと見ることができます。
つまり、物理学的可能性(あるいは真実)と歴史的可能性(あるいは真実)の違いについて。
そして、ある対象を評する言葉が歴史的に変化すれば、それはその対象そのもの変化に匹敵する変化を生み出すこともありうるということを示しているようにも読めます。

ベースにある技術(内部構造)なんて変化しなくても、生物は外的形態をすこし変化させるだけでとんでもない違いを生み出してきました。
インターネットそのものがほとんど変化しなくても、それを評する言葉が変化するだけではそれはそれ以前とは明らかな違いを生み出すこともあるのではないでしょうか?
それがどれだけ本質的な変化を生み出すかどうかはこの時点で断言できなくても。

P.S.
いま見たら池田さんのエントリーをあらためて見たら記事内容が変わってるじゃないですか!
「(*)誤解のないように付け加えると、」の部分は、まぁ、付け加えたことが明確なので、まぁ、いいとして、「ブログの数が全世界で4000万近いといっても、10億人を超えたインターネット・ユーザーの4%にすぎない。Wikipediaも、ユーザーの1%以下の「プロ」が半分以上の項目を編集している。」の部分も僕がこの記事書いたときは存在しなかった一文ではないでしょうか?
とはいえ、それが付け加わったことで、僕のこのエントリーが大幅な誤解によるものだとわかったわけですけど。
(2006/08/07 02:28追記)

 

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