細胞膜が私的所有の生物学的期限というのは、素晴らしい着想だと思う。私も実は常々考えてきたのだが、先に言ったもの勝ちである(とはいえ、鈴木氏より前に似たようなことを言っていた人もいたように思える)。
先に言ったもの勝ちとすれば、確かに鈴木さんより先に言ってた人はいると思います。
例えば、これなんてそうでしょう。
自律的代謝を有することに加え、どんな生物も自分をその他すべてのものから識別する多かれ少なかれ明確な境界を持っていなくてはならない。この条件にも、有無を言わせぬ明らかな論理的根拠がある。すなわち、「何かが自己保存の仕事に取り掛かると、直ぐに境界が重要になる。なぜなら、もしあなたがあなた自身を保存することに取り掛かり始めたら、あなたは全世界を保存しようと無駄な努力をしたりするのは望まないからだ。つまり、あなたは境界線を引くのである」(Dennett 1991a,p174)ダニエル・C. デネット『ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化』
つぎに、約14億年前に大改革が生じた。つまり、バクテリア様の原核生物の幾つかが他の原核生物の膜の中に進入して、<真核生物>-核と、他の特殊化された内的組織体とを持った細胞-を作り出したときに、こうした最も単純な生命形態の幾つかが文字通り力をあわせたのである。同上
というよりも、上記の本でのデネットの論述を信じるなら、ダーウィン自身の思想に「私的所有の生物学的起源」に関するものが含まれているのでしょう。
もちろん、そこには細胞膜なんて言葉は出てこないはずですが。
まぁ、なぜFLASHなのかは別として、僕自身は鈴木さんの「私的所有の生物学的起源」は興味をもってみれました。最近、似たようなことを考えていたので。
それに音楽がいいですよね。
そういえば、「このヒトを見よ 02:内部と外部/境界線の相対性」のエントリーへのはてブコメントに「なんだか鈴木健みたいなことを言ってる。」というものがありましたが、この手のことだったんですね。
これも進化の過程で異なる種で、何十回も眼が進化してきたような収斂進化なのか、それとも同じオリジナルをもつ異なる種が進化したのか、わかりませんが、それはそれでとりあえずはいいのかなと思っています。
生物進化との関係からいまのWeb2.0にまでにつながるヒトの歴史については、僕もここらへんでまとめてみようと試みていますが、このあたりの続きを弾さんに「検証がずさん過ぎ」と指摘されないようにするためにも、そろそろ未読な『種の起源』でも読むべき時期かな?
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