なんで、そんなことをいまさら補足しようと思ったのかといえば、以下の2つの文章をたまたま目にしたからです。
まずは『ブログスフィア』からの引用。
ルクレールは、ブログを始めた当初は知的なゲームのようだったが、やがてある種の責任感を伴うようになったという。「全てのコメントがやがては社会的な認識に結びついていく。それにビジターが増えるにしたがって、ブログは癖になるね。注目されるのはいい気分だ。そして、だからこそ責任が問われるんだ。(後略)」ロバート・スコーブル『ブログスフィア アメリカ企業を変えた100人のブロガーたち』
もうひとつは、批評家・東浩紀さんのブログ、渦状言論のすこし古い記事のこんな文章。
そして、批判をすれば相手は不愉快に思う。これもまた当たり前で、僕の読者に僕を批判する権利があるように、僕も自分に対する批判を読んだら不愉快に思う権利がある。ところが、彼らにはその当たり前のことが理解できていない。つまり、相手が自分と同じ人間だということがわかっていない。
僕がブログを書くときに「あまり考えずに」書きつつも「何も考えずに」書いていないというとき、最低限、考えているのはこのことだったりします。
公開される文章なので、自分で書きたいことは書きつつも、やはり読まれる方の気持ちは考えて書くようにしています。
もちろん、どんなに視野を広く持とうと意識だけは高くても、想定できていなかった人の立場までは汲み取れず、他人を不快にしてしまうことを書いてしまうことは、僕にもあります。
でも、できるだけ誤解を与えないようにと思いますし、コメントやトラックバックでそうした点を指摘していただいた方には、できるだけ自分の側の足りなかった部分を認め、誤解を解いていただけるよう、補足を補おうと思っていますし、自分では少なくともこれまでそうしてきたと思っています。
それは責任であり、責任と呼ぶのは起こったことを他者のせいにするのではなく、自分の落ち度を事後的にでも認められる準備をしておき、いざそれが現実になった際にはそのように対処するという意味においてです。
大事なことは、限界はあってもできるだけ広い視野でいろんな読者を想定することではないでしょうか?
学生と仕事をしている人ではやはり考え方は違います。
営利企業で仕事をしている人とそれ以外の組織で仕事をしている人の立場もやはり違います。
Webが仕事の人とWebにはあまり関わらない人も、ブログを自由に書ける人もなかなかそういう立場にはなれない人ともやっぱり違います。
いろんな人の立場があるので、自分が考えたことを自由に書くにしても、そうした人たちも書かれたものを読む可能性があるということは最低限意識しないといけないなと感じています。
会社のほうのブログを含めても、まだブログ歴1年半程度ですが、そのことの大事さは経験上、学んでこれました。
先の『ブログスフィア』には、「企業によっては、実際に、ブログに乗り出すべきではないところもある」という言い方で、ブログのトゲについて書かれた「バラのトゲ」という章があります。
多くを「ブログの美点」に割かれた本書でも、その美点を最大限有効に利用できるようにするためにも、ブログのデメリットにもきちんと1章が割かれているわけです。
自分とは違う他者に対する想像力を可能な限り発揮して、他者を考慮したうえで書くということも「ブログの美点」を活かすためには必要なことだということを、あらためて書いておこうと思ったわけです。
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