文字というモノに固定される言葉と、発せられたと同時に儚く消える声によることばでは、まるで思考の方法や世界の見方が異なってくる。今日もまた、そんな話をいくつか書き散らしてみようと思います。
まず、最初に現代に生きる僕らにとっては、自然なものと考えられる「研究」という思考活動について。
『声の文化と文字の文化』のなかで著者ウォルター・J・オングは、話しことば社会に生きる人びとは研究をすることがないと言っています。
いや、正確には「することがない」のではなく、「できない」のだといいます。
というのも、研究という人間の活動も、そもそも書くという行為から生じる分析力によってはじめて可能になるからです。まさに分析対象のデータをポストイットなどに書き出して、さまざまな組み合わせを検討しながら思考し、思考そのものを分析、総合の対象にするKJ法ように…。
プラトンは書くことに深刻な留保を表明していたが、彼自身もそれを求めて戦った哲学的思考とは書くことに全面的に依存していた
オングは「ことばには、軌跡すらない。ことばは、事件でありできごとなのである」と言っています。もちろん、声としてのことばに関してです。声としてのことばは先にも書いたように、現れた時にはすでに消え去るような儚い存在です。文字のように固定された状態で存在しないので、ことばを扱うためには常に記憶に頼ることが必要になります。以前紹介した「記憶術/フランセス・A・イエイツ」でも書かれていたとおり、古代から中世にかけてのヨーロッパ思想の展開において、記憶術が大きな役割を果たしたということもそうした観点から理解できます。
しかし、先に研究が文字が生まれてはじめて可能になった人間の活動だと指摘したのと同じく、オングは記憶術に大きな役割を担わせたギリシアの哲学そのものが書き言葉としてのアルファベットがある程度浸透してきてから生まれてきたものであると指摘しています。
『パイドロス』や『第七書簡』のなかで、プラトンは、書くことに深刻な留保を表明していた。書くことは、知識を処理する手段としては機械的で非人間的であり、〔書かれたものは〕尋ねられても即座にこたえられず、記憶力をそこなわせるものだ、というように。しかしそれにもかかわらず、われわれがいまや知っているように、プラトンがそれを求めて戦った哲学的思考とは、この書くことに全面的に依存していたのである。ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』
プラトンはここで記憶力をそこなう点を書くことのデメリットであるかのように指摘していますが、実は記憶だけに頼っていたのでは哲学的思考は可能ではないことを見落としています。その点では文字の罠にはまっている度合いは僕らとそれほど変わらないのです。
研究にせよ、哲学にせよ、何かまとまった物事を分析的に考えるためには、自分の考えていること自体を回帰的なかたちで思考の対象にすることができる必要があります。メタ的視点で自分の思考そのものを分析対象にするのです。
そのためには書くことで自分の思考を文字という視覚で捉えられる対象にすることが必要になります。まさにポストイットに書き出したデータを用いてKJ法を行なうのとおなじです。もちろん、自分の思考だけでなく他者の思考を文字を介して入手でき、自分の思考を同じように文字を介して他者に伝達できることも必要です。そういう条件が揃ってはじめて、哲学や研究といった複雑な思考は可能になるのです。
文字を身につけた者がしばしば最初に研究するものの一つは、言語それ自身とその用い方である
研究で必要な分析的な思考作業には、自分自身の思考も含めて、分析の素材となる思考の断片をある程度の自在性をもって自分の目の前に配置したり並べ替えたりができる必要がある。そんな風に思考の素材を視覚的に編集することができるようになってはじめて分析的思考は可能になるのです。その意味で次のオングの指摘は非常に示唆的です。
厳密な意味での研究、つまり、順をおう分析の展開という意味での研究が、書くことの内面化とともに可能になるとき、文字を身につけた者がしばしば最初に研究するものの一つは、言語それ自身とその用い方である。ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』
レトリックという言葉の語源であるレートリケーは、基本的に公衆の前で話すこと、演説あるいはその術を意味するものだったといいます。つまり、話しことばに関する術がレトリックであって、文字で書かれた表現をあらわす語では本来はなかったのです。
ただ、話しことばを用いて行なう演説術といえども、それを研究するためには演説を書き下ろしたテクストが必要です。話されている最中にしか存在しない演説のことばでは研究に用いることはできません。アリストテレスの『弁論術』を含め、反省的かつ組織的な技術として研究された口頭での話法の技術でさえ、書くことによってはじめて可能になったのです。
「I see that.(わかった)」とは、まさに言い得て妙の英語である。
とはいえ、この客観的な思考が、僕らの思考と同じような様相を見せるようになったのは、単に書き文字を人間に使うようになっただけではなく、視覚的な文字を個々人が私有して自由に扱える環境を実現した印刷技術の普及以降のことです。まぁ、この点に関してはこれまでも何度か書いてきましたので、今日は省きます。今日、取り上げたいのは、メタ認知という客観的な自己認識の得意/不得意さと、思考を文字にするという視覚化の関係性についてです。その話に移る前にまずは高山宏さんの『近代文化史入門 超英文学講義』からこんな一文を紹介。
「I see that.(わかった)」とは、まさに言い得て妙の英語である。「私が見る」ということと同時に「私はわかる」を意味するのである。「見ない限りは理解しない」のである。
高山宏さんの『近代文化史入門 超英文学講義』は見ることそのものが知だと認識される社会が18世紀の100年間成立していく様子を描いた興味深い一冊なのでぜひ読んでいただきたいのですが、まさにこうした「見る」ことと「わかる」ことが深い結びつきをもつようになったのも、見ることばである文字が印刷技術の浸透によって誰でも容易に私有できる社会環境が生まれたからだと言えます。
蒙(くら)きを啓(ひら)く啓蒙主義が市民レベルに浸透したのも、客観的で分析的な思考に必要な文字を市民レベルでも扱えるようになった印刷文化の普及が大きく影響しているのです。
メタ認知という客観的な自己認識と思考を文字にするという視覚化の関係性
さて、ここで話は現代に飛びます。僕らがいまや日常的に利用しているユーザーインターフェイスは、利用者と利用される対象である道具のあいだを取り持つコミュニケーションのツールだということができます。それゆえ、ユーザーインターフェイスをデザイン=設計する際には、利用者と利用される道具のあいだのコミュニケーションが円滑に行なわれるように十分配慮する必要があります。
その双方向のコミュニケーションのうち、利用者の側をデザイン=設計するということはできないわけですから、円滑なコミュニケーションを可能にしようとするなら、道具の側の表現をみた利用者がどう捉えるか、どう反応するかということを想像した上でデザイン=設計することが求められるわけです。
ところが、自分以外の他者を想像しているかどうか以前に、それができるようになるためには別の前提条件があるのです。
それは何かというと、自分の考えを客観的な視点で捉えることができるかどうかです。つまり、メタ認知。
自分の考えが客観的に見えていないのに、他者との共通点や相違点を分析的に把握できるはずがありません。他者を理解するということは、比較対象としての自分のことが客観的に見えている必要があるということなのです。
メタ認知ができない人の共通点というのは、おそらく文字を扱う思考が苦手なことだと考えます。
本を読んだり自分の考えていることを文章にしたりすることを普段からやっていないと、メタ認知力が養われず、自分の考えていることを客観的に捉えることができません。そうなると、客観視した自分と他者を比較するということができず、主観的な見方で他人を評価してしまったり、あるいはまったく他人のことを鑑みないかということになったりします。
そういう視点では、UIデザインに限らず、自分とは異なる利用者にとってもユーザブルなものをデザインすることはできません。もちろん、デザインだけではなく、人間同士のコミュニケーションにも支障があるはずです。
自分を客観視するためにも、自身のことば生活を見直してみてはどうでしょう?
実際、これまで何度かデザイン思考ワークショップの講師をやらせていただいて、参加者の方にKJ法をやっていただいているのですが、はじめてKJ法をやる人同士で比べた場合でも、書かれた言葉を組み合わせながら思考を組みたてるKJ法の作業が得意な人はその後に行なうペルソナ化やシナリオデザイン〜プロトタイピングという流れもスムーズに行なえ、かつきちんと利用者の視点に立ったデザインができます。逆に、KJ法がちんぷんかんぷんな状態の方は、その後もなかなか自分の思い込みのユーザー像のままで進んでしまいます。話していても、自分の思考をちゃんと伝えられる人と、そうではなく会話でのキャッチボールがそもそも成り立たなくなてしまうくらい、自分の考えとこちら側の質問を噛み合わせられなくなる人がいたりします。
その意味では、自分自身の考えを客観視した上で他者を理解する上での基点とするというメタ認知的思考を養うには、今回書いたような文字によって可能になる分析的思考ということの意味を理解した上で、日々の生活におけることばとの関わり方をあらためる必要があるのかなと思います。
最近よく書いているように、TwitterやFacebookのようなソーシャルメディア上の情報が流れては消えるおしゃべり的な要素が強いのであれば、意識して、それとは別の情報メディアに触れることも考えてみる必要があるのではないでしょうか?
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