昨日書いた「猛スピードで積み重ねられる過去と不確定な未来に板挟みにされてすでに虫の息である現在において、新しさも懐かしさも感じられなくなった社会で僕らはどうしていくべきか?」のとおり、新しいものが売れる時代ではまったくなくなりつつあります。新しいものより愛されるものをつくることが必要になってきています。
一方で、そもそも、ものが売れにくくなってきているという傾向は相変わらず続いていますし、これからも続くでしょう。
買う人の母数が減ってきているのに対して、いろんな市場の参入障壁が軒並み下がる傾向にあってプレイヤーは増えている。また、一部ではこれまでプロダクトとして提供してきたものがソフトウェア化したり、パッケージ販売していたものがクラウド化されて、低価格化や無料化が進んでいます。
とにかく、どう売ったらいいか? 何を価値提供すればいいかに迷うのが、マーケティングの抱える大きな課題ではないでしょうか?
でも、僕はこう思うんです。
自分たちが何を売るのか? 何を価値提供するのかの答えを出す前に、ちゃんと自分たちの考えをことばなどで表現して、それに対して市場の共感を得られるかを確かめることを日常的な企業活動に組み込むことが先決なのではないかと。
共感してもらえる考え方を発信する力があるか?
そもそもモノを売ることより、いかに共感してもらえる企業であるかが大事な時代です。モノを買うユーザーの側でも何を買うかの判断に、その企業やブランドに共感できるかという要素が大きな割合を占めるようになってきていると思います。それは日用品や消耗品を買う場合でも、もっと高価格な耐久消費財のようなものを買う場合でも変わらないものだと思います。
いま、人びとは、企業がもつヴィジョンに対して共感できるかできないかを元に、購買行動や利用行動をするようになりました。
つまり、企業側からすれば、何を売るかの前に、自分たちの考え方は人びとの共感を得られるのだろうかということを問われているのです。
簡潔にいえば、共感してもらえるヴィジョンや姿勢でモノやサービスを売っていく時代だと僕は感じています。
そして、とうぜん、自分たちの考え方に人びとが共感してくれるかどうかを知るためには、自分たちの考え方を発信し、その反応を見ることが必要になります。
ソーシャルメディアといった踏み絵ツール
その辺り、自分たちの考え方に人びとは共感してくれるかどうかを知るための踏み絵的なツールとしてソーシャルメディアを活用するというのが、僕の考えです。考えに対して共感を得ることさえできないのでは、これからの市場において売れるものをつくりだしていくというのはむずかしいでしょう。
とにかく、今の時代、新しいものだけが自分たちの競合なのではなく、過去のものでも人びとの共感を得られるものは等しく競合なのです。競争の激しさはますます激しくなる一方ですし、その競争のポイントはますます技術的なものから、共感を得られるヴィジョンを提示できるかどうかに移ってきているのですから、黙っていいものをつくればいいとか、クリエイティブでよさげなイメージを提供できればよいとかという発想ではまったく立ち行かなくなっています。
「ソーシャルメディアという寄合空間」でも書いたとおり、すでに企業は自分たちの側から一方的に価値提供してすましていられる状況にはなく、むしろ自分たちの側には一切のコントロールをもたない状況に置かれています。
そこですこしでも発言権を得ようとすれば、ユーザーの寄り合いの場としてのソーシャルメディアの空間にユーザーとおなじ目線で会話を試みることが求められます。
そのなかで、企業はほかのユーザーが自分の考えを述べるのとおなじように、自分たちの考え方を述べ、それに対するいろんな反応に耳を傾けることができるかどうかが重要になってきていると思います。
アンケートのように堅苦しく結果がでるまでに時間のかかる形式で自分たちの考え方についてのフィードバックを得るのではなく、あくまで企業とユーザーが対等の位置に立てるソーシャルメディアという空間で、そもそも自分たちのおしゃべりが人びとの興味をひくのか、そして、それは共感を得られるものなのかを肌で感じることができる状態をつくるのが必要ではないかと思っています。
いまこそ個人の発信力が求められる
しかし、多くの企業が発信すべき自分たちの考えをそもそももった状態にはいないし、それをソーシャルメディアのなかに入ってユーザーのおしゃべりのなかで自然と発信できるような人材を育てられていません。結局、ソーシャルメディアでダイレクトにほかのユーザーとコミュニケーションをしながら、自分たちの姿勢や考え方を伝えていくには、組織のなかの個々人がピアになる形で、P2P型のコミュニケーションを実現できるようになるしかありません。
その際に、ピアになる個人は、ファーストフードのカウンターに立つ人とは事なります。企業ブランドの仮面に身を包んだロボットではありません。
むしろ、個人のキャラクターが先にあって、それが企業のイメージや価値を引っ張っていく形です。そうした個人として、これからはひとりひとりが情報発信力や思考力を高めていく必要があるのです。
そして、企業はそういう力をもった個人によるヴィジョンの提示によって市場からの共感を得られるよう活動を続けるのです。
もちろん、勘違いしてはならないのは、そういう個人が育つ場を提供するのは組織の責任です。その責任を果たさない企業なら、優秀な個人がそもそもそこにいる必要がないのですから。
いつでも責任と権利は対になっているものです。個人のもつスキルを利用させてもらうためにも企業は育つ環境を提示するという責任を果たすことで、スキルの利用の権利を得るわけです。
企業とそこに所属する個人が、市場に対して自分たちの考え方を発信し、フィードバックを得る場所。そんな風にソーシャルメディアという場所を捉え直すことが必要なのではないでしょうか?
そして、それ以上に大きく変わっていくマーケティング環境に適応できる形に組織も個人も自分自身を積極的に変化させていくことが求められています。しかも、悠長にかまえているヒマはなく、迅速に変わることが必須になっているのではないでしょうか?
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