2006年07月27日

このヒトを見よ 01:1.0と2.0

このヒトを見よ。
ヒトとは何か? 人はヒトの何を知っているのか?
ニーチェの『この人を見よ』(Ecce Homo, 1888)から拝借した、このテーマはしばらく続きそうなので、最初からシーケンシャルナンバー付で書くことにします。
とはいえ、結論となるものは見えていないので、書き連ねていくうちにGOALが見えてくれば幸い。

うしろが見えているか?

今日、名古屋駅のエスカレータで「ちょっとどうなの?」と思うシーンに出くわしました。
僕は仕事の関係で急いで移動しなくてはいけない状況でした。
ところが、なにやらチンタラと緩慢な動きでエスカレータの前をふさいでいる集団がいて、なかなかエスカレータに乗れませんでした。
何をやっているのかと苛立ちながら見てみると、2人1組の片方が目隠しをし、もう片方が目隠ししたほうの手を引いていました。そんな組が5組ぐらいあって、エレベータの前を完全にふさいでしまっていたのです。

ようするに、目隠しをしてエスカレータに乗ることを体験することで、視覚に障害のある人の世界を体験しようという主旨なんだと思います。
まぁ、それ自体はいいでしょう。
目隠しをしてまわりが見えない状況でエスカレータに乗ったりすることがどれだけ大変なことか、それでわかるのかもしれません。
ただ、いただけないのはモノが見えていないのは、目隠ししていないほうだということです。
うしろがつまっているのに、目隠ししていないほうがちゃんとエスカレータに乗れるかとか、そんなことばっかり気にしているようで、まったく周りの状況が見えていないのです。

それってたぶん、その試みの主旨を誤解してるんじゃないでしょうか?
自分がある日、突然、ものが見えなくなることをイメージすることも大事かもしれませんが、見えない人が街にいた場合、どう行動するのがよいかを学ぶ機会を与えようというのが、きっとその試みの主旨ではないかと思うからです。
眼の不自由な人がいたら、その人がエスカレータの乗り降りなどで困らないようフォローしてあげることももちろん大切ですが、その人がまわりの人の迷惑にならないよう、その人の目に代わって周りを見てあげることだって大切だと思うからです。

どこまで見えるのか?

何かに集中してしまうと周りが見えなくなってしまうことは、多かれ少なかれほとんどの人にあることだと思います。

自動券売機で切符を買うとき、エレベータの中で話が盛り上がってしまったとき、巷で流行っているバズワードに感銘を受けてしまったとき・・・。

こうした場合、問題は「何も見えていない」ことではなく、「何か特定のものだけが殊更見えてしまっている」ということです。

そして、こうした傾向は何も「何かに集中している」ときに限ったことではなく、そもそも、人間は自分の興味のあることだったり、自分が理解できるものに偏ったモノの見方をする傾向はあると思います。
そういう傾向はときには、他人の話に耳を傾けるより、自分の意見を相手に認めてもらうことにばかり意識がいってしまい、相手との間で生産性の低い論争を繰り広げてしまうということにもつながったりします。

つまり、下図で小さな円の重なった部分をみるか、3つの小さな円を含む大きな円を見れるかということです。



相手との話の中で相手との共通点を見るのか、あるいは、相手がいるにも関わらず自分の小さな円だけを見ているのか、それとも、相手の円も見つつ、両者を含む大きな円を描くことで当初は相手の中にも自分の中にも存在しない領域にまで思いを巡らせる視野の広さがあるのか
おそらく、普通に暮らしていれば感覚的な動物であるヒトは、強く意識して自分の感覚で見える以外のものを何かしらの方法で見ようとしなければ、自分の中の小さな円の中しか見えません。
ヒトにはそういう傾向があると私は思います。

1.0と2.0

さて、ここまでこんな話をしたのは、Web1.0とWeb2.0の間には、直感的な視野と非直感的な視野の差のようなものが深く関わっているのではないかと私は思っているからです。
そして、それはWeb1.0とWeb2.0に限ったことではなく、ニュートン物理学と相対性理論の関係でも同じことがいえるのではないかと思っています。

1.0と2.0の差を、私は直感による認識と直感を越えた認識の差としてみています。
言い換えれば、それは個人/個体が自身の身体をはじめとする身近なツールのみによって得られる直感的な認知と、個人/個体の身体的な認識力を超えて、指数/対数や統計などの数学的なツール、アルゴリズムを使って高速で演算、論理展開を高速で行うコンピュータなどの外部ツールをふんだんに利用することではじめて得られる非直感的な認知の違いにあるのではないかと思うのです。

Web1.0とWeb2.0に話を限れば、それはWeb体験の事前/事後という形でとらえるとよいのではと思っています。
この場合、Web体験の事前/事後というのも個人の体験としてではなく、インターネットユーザーの全体的な体験としての事前/事後です。
Web1.0がまだ誰もWebを体験していない段階で、Web開発者が最大限に想像力を働かせて開発したものだとすれば、一方のWeb2.0はすでに世間で当たり前にインターネットが使われるようになった段階で、その使われ方を目の前にして開発したものだという違いがあるのだと思います。

この場合も使われ方というのは個々人がどう使っているかという話ではなく、多くの個々人が利用することで、Webそのものが、あるいは、Web上の情報がいかに変化しているかを捉えることで、はじめて直感では導けない世界の様相を捉えられるようになったのではないかと思うのです。
つまり、先の円の例で言えば、3つの円全体が直感を超えた可視化が行われたことで、3つの円を包括する大きな円が描けるようになった結果、Web2.0的な環境を整えるための技術革新が行われるようになったのだろうと思うのです。

事前と事後

そして、いうまでもなく、アインシュタインの相対性理論にしたところで、ニュートンの運動法則とマクスウェルの電磁気法則の衝突という物理学上の大きな問題が可視化されるという事前の段階がなければ、アインシュタインがその衝突を解決するものとして、特殊相対性理論という包括的な解を導くこともなかったのでしょう。

しかし、Web1.0とWeb2.0でも、ニュートン物理学とアインシュタイン以降の物理学でも、1.0のあとに2.0があらわれたあとは社会における認知のあり方が大きく変化します。
もちろん、現在も物理法則を念頭に置く必要がある設計において、依然としてニュートン物理学がきわめて正確な近似値として用いるのに、ほとんどの場合には何の支障もないのと同じで、Web2.0なんて言葉が登場したからといってWeb1.0的な技術がお払い箱になるわけではありません。

ただし、2.0以降では、同じように1.0的なものを利用する場合でも、それ以前のようにその選択がアプリオリなものだと信じて何の迷いもなく使うことはできなくなるのではないでしょうか?

それはモダンとポストモダンでも、前期ヴィトゲンシュタインと後期ヴィトゲンシュタインでも、ダーウィン以前と以降でも同じことがいえるのだと思います。
あるいは、ダイエット以前と以降、整形前と整形後でも同じです。

一言でいえば、事前/事後ではパラダイムが変化します。
ただ、1.0と2.0的な事前事後の場合、そのパラダイム変化が先にも書いたとおり、直感的なもの(例えば、空間と時間は変化しない)から非直感的なもの(例えば、空間と時間は相対的で観察する系によって変化する)へのパラダイムの変化だと思うのです。
物理学からもう1つ別の例をあげれば、量子力学の非常識的な世界を想像してもらってもよいでしょう。
再びWeb1.0とWeb2.0の話に戻せば、そのパラダイム変化は、やはり個人として直感的に理解できるつながりをはるかに超えた複雑な双方向性のある非直感的なつながりがポイントとなってくるという点で、その非直感的なつながりを自分の直感に落とし込んで認識できるかどうかが、Web2.0を体感できるかどうかの境目になってくるような気がします。

このように個人の直感から、それを超えた非直感的なつながりの認識という話になると、内部と外部の境界線のあいまいさ/相対性も問題となってくるのではないか、と。それが次のエントリーのテーマになります。

posted by HIROKI tanahashi at 00:58| Comment(0) | TrackBack(0) | このヒトを見よ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック