もう5年以上、その傾向が続いているのですが、手作りで丁寧に作られた品や機械を用いていても今とは比較にならないほど丁寧な作りのものに惹かれます。陶磁器や織編品、木工、竹編品などの民藝・工芸品が好きなのは以前からお伝えしていたとおりですし、身につけるものでも好きなブーツは100年以上の歴史のあるブーツメーカーのものだったり。服も19世紀後半から1930年代くらいのものをリプロダクトした商品のもつ独特の縫製やディテールに魅了されます。現行品にはあり得ないほどの細かい運糸で縫われたシャツやジーンズ。洗うと縮む綿の生地と縫製糸が独特のパッカリングを生んで、それが着込めば着込むほど、愛着のある味になります。
逆にいうと、新しいテクノロジーを使ったガジェットや流行のファッションなどにはまったく興味がもてなかったりします。


それから、よく考えると、本の好みに関しても似たような傾向があり、新刊のビジネス書などに興味を惹かれることはほとんどなくて、読むのは、折口信夫さんや白川静さん、宮本常一さん、マーシャル・マクルーハンやランスロット・L・ホワイトのようにすでに亡くなられた方の作品か、扱うテーマが現代ではなく古代からせいぜい19世紀までのものだったりします。
ただし、古いものが好きだといってもノスタルジーや懐かしさからそういうものに惹かれているのではありません。なにしろ、ほとんどの対象を僕自身がリアルタイムに経験してきていないような時代のものなので、そもそも懐かしさなど感じようもないものです。
では、なぜ古いものに惹かれてるかといえば、むしろ、僕にとっては、古い技術でつくられたもののほうに現在普通につくられているものにはない新しさを感じるからだし、本の場合でも自分たちが普段考えたのでは思いつかない発想が時代の違う場所でのほうが見つかると感じられているからです。つまり、僕は自分が新鮮に感じられ、かつ共感をもてるものを探すのに、時間軸的な新しさ/古さとは無関係に選びとろうとしているのです。それは少なくとも僕にとっては社会的に新しくつくられたということが必ずしも新鮮に感じられないということを意味します。
この話のうちの「社会的に新しいものが必ずしも新しく感じられるものでない」ということに関しては、おそらく僕より若い世代の人たちのほうがより当たり前のように感じていることだったりするのではないでしょうか?
最近、ソーシャル化する社会を話しことば社会化する世界であると述べてきましたが、今日のこの話に関しては、まったく逆で、書き言葉社会のひとつの完成形が現在のこの新しさも懐かしさも欠いた世界であるという視点からすこし雑多に述べてみたいと思っています。
ないがしろにされる現在
フランスの作家であるジャン=クロード・カリエールは、イタリアの中世学者であるウンベルト・エーコとの対談 『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』未来は過去を尊重しませんが、現在はもっと粗末な扱いを受けています。飛行機の機体組立士たちは、今日、20年後に実用化される飛行機の製作に取り組んでいますが、燃料に使われる灯油は、20年後にはもう存在しません。心底驚くのは、現在がすっぽり消えてなくなってしまっていることです。(中略)過去は猛スピードで我々に追いつき、遵守しているやり方はすぐに3ヶ月くらい前のものになってしまいます。未来は相変わらず不確かで、現在はしだいに縮んで、消えてしまうのです。ウンベルト・エーコ&ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』
あまりに早すぎる時間の流れが、いま最先端の事柄を学び取ろうとする努力も、それがようやく実を結ぶくらいの3ヶ月後には学ぶ対象だった事柄自体が過去のものになっているというのが、上の引用の前後で語られている話です。
こういったスピード感はまさに僕ら自身が感じとっていることであり、一瞬でも躊躇して立ち止まったら置いてけぼりを食うのが今の刻の流れではないでしょうか。かといって、未来は誰にも予測できるはずもなく、僕らはほんの一瞬前にみた対象が完全に視界から消え去る前に捕まえて、とにかく自分の身になるように、それを使い、それを語ることで、なんとか未来から見捨てられないようにしています。そのとき、どうしても犠牲になってしまうのが、イマココの現在です。
計画という名の下に、未来のために現在を犠牲にするのは人間の悪癖であるといったのは、ジョルジュ・バタイユですが、まさにジャン=クロード・カリエールが「私たちは終身学習刑を宣告されている」という言葉で表現するのは、いくら学んでも学びきれないほどの猛スピードで過去が蓄積される現代の流れにおいては、進歩という幻想の未来に向かう人間の罪を償うしかない僕らの社会の悪癖なのでしょう。
印刷革命と時間感覚の変化
時が流れていくのは、話しことば社会でも、書き言葉社会でも変わりありません。異なるのは、書き言葉社会の場合、流れた時の軌跡が視覚的に残ってしまうということです。おしゃべりの痕跡はそれをあらかじめ録音する意図などなければきれいさっぱり消えてなくなりますが、本に書かれた言葉は誰かが読んだあとでも変わらず残っています。いや、誰かが読むかどうかに限らず、本に書かれた言葉は一定です。おしゃべりにおいては人がことばを実際に発しないかぎり流れは存在しないし、見えていないのとは大違いです。
マクルーハンが印刷本を最初のマスプロダクトだといったのも、そうした面から理解する必要があると思っています。
印刷技術とともに、ヨーロッパは人間の長い歴史のなかで、消費を社会の原動力とする消費時代の最初の段階にさしかかったのだった。なぜなら、印刷はたんなる消費媒体であり商品であるにとどまらず、人間が自分のすべての経験、あらゆる活動を線形システムにもとづいて再組織してゆく営みを教示していたからだ。また印刷は人間に対して市場を作り出し、国民軍を創設する方法も教えたのだった。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』
印刷革命によって、ヨーロッパは中世から近代への歩みをはじめました。それは時間が生命的に流れる時代から機械的に刻まれる時代への移行です。また、それは一直線に流れる時間を具体的に大量生産しはじめた契機でもあったはずです。
先に過去と未来のはざまで現在が犠牲になるという話をしましたが、そうした現象が起こってしまうのも、マクルーハンがグーテンベルク以降の変化として「新しく生まれた時間と空間の観念は、時間と空間を事物や活動によって満たされるべき容器と見なしはじめた」と指摘するような、時間を視覚的に満たすべき容器として捉えるような視点がデフォルトになっている僕らの時間概念によるものです。
古代の人びとの時間概念であれば、逆にそうした現象は起きえないのです。
村には歴史がなかった。過去を考えぬ人たちが、来年・再来年を予想したはずはない。先祖の村々で、あらかじめ考えることのできる時間があるとしたら、作事はじめの初春から穫り納れに至る一年の間であった。折口信夫「若水の話」『古代研究〈1〉祭りの発生』
古代の人びとには過去も未来もなかったのです。昨日や明日ができてからも、それはいまのように線形に進む時間概念をあらわすものではありませんでした。それは次のような「みこと」「祝詞」と時空間の関係にもあらわれています。
みこともちをする人が、その言葉を唱えると、最初にみことを発した神と同格になる、ということを前に云ったが、さらにまた、その詞を唱えると、時間において、最初それが唱えられた時とおなじ「時」となり、空間において、最初それが唱えられた処とおなじ「場処」となるのである。つまり、祝詞の神が祝詞を宣べたのは、特にある時・ある場処のために、宣べたものと見られているが、それと別の時・別の場処にてすらも、一たびその祝詞を唱えれば、そこがまたただちに、祝詞の発せられた時および場処と、おなじ時・処となるとするのである。折口信夫「神道に現れた民族論理」『古代研究―2.祝詞の発生』
僕はこの折口信夫さんの語る古代の時間感覚を知ったさいに衝撃を受けたのですが、けれど、こうしたものが、古代から中世まで基本的に続いていた時間感覚なんだろうといまではつよく信じられるようになりました。
むろん、印刷による大量生産はできないまでも、すでに文字による記録が可能になったギリシア以降、中世までは、書くことによって時の記録そのものは可能でした。ただ、それは蓄積する過去の量としても限られましたし、そのアーカイブに対するアクセシビリティも非常に限られた範囲であったため、アーカイブの共有はほぼ不可能で、それはまた共通にひとつの線形的な時間を共有することの不可能さでもありました。
おそらく印刷本によって生み出された大量の蓄積され固定され視覚化された過去がなければ時計の発明もいまのような意味をなさなかったでしょう。
印刷革命というのは、その意味で体内時計的で自然な時間を刻んでいた世界を、一直線に流れる機械的な時間へと置き換えたという意味でも革命だったのです。
ものに力さえあれば、どこかでまた誰かがそれを作りはじめ、また、暮らしのなかで使われるようになる
印刷革命によるマスプロダクトの発明は同時に、アーカイブされるデータと実際に利用者されるアウトプットを別物として切り分けたクラウドモデルの先駆けだと捉えていいと思っています。逆にいえば、マスプロダクトというのはクラウドモデルに至る過渡期の形態であって、蓄積されるオリジナルデータと僕ら一般の人びとが利用するアウトプットされた情報/商品は、ひとつ前の「無文字社会に生きる人びとに目を向けると、文字通り、リテラシー=読み書き能力が人間の思考や社会生活を変えるのだということに気づかされる」でも書いた個人の意識と行動の分離や、イデアと個々の現象と同様の関係として切り離されたと考えていいでしょう。いや、それを切り離すことを発明し、その現実における有効性を社会に浸透させたのが印刷革命であり、その延長にあるものとしての情報技術革命だと思います。
機械時代の終焉を迎えているにもかかわらず、なお人びとは、新聞やラジオは、いやテレビさえも、情報形態であることは認めながらも、実は車や石けんやガソリンと同じように有形商品(ハードウェア)の製造者や消費者によって売買されるものと考えていた。オートメーションが地歩を固めるにつれて「情報」こそが肝心の商品であって、有形の生産品は情報の移動を助ける付随物にすぎないことが明確になってくる。マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』
そう。情報技術はあくまで印刷技術の延長にあるのであって、電子書籍を紙の書籍と対立させるのは狭い業界的な対立以外にはまるで意味がないことです。
すこし話は変わりますが、最初に民藝・工芸的なものに魅力を感じると書きましたが、それらも紛れもなく大量生産的な生産物であることを僕らは忘れてはいけないと思っています。それらがアーカイブされ、時代をはるか下った僕らも利用可能なのは、それがデジタルなサービス同様のITの恩恵を広い意味では受けているのだということも、僕らはあらためて認識しておくことが大事だと思っています。
生活道具は企業ではなく個人の手によって作られるものが多いから、作る人がいなくなると、そのまま途絶えて、消えていくものも多いと思います。作り手は有限の時間のなかでものを作っているのだから、それも仕方がないことだと思っています。でも、ものに力さえあれば、どこかでまた誰かがそれを作りはじめ、また、暮らしのなかで使われるようになるでしょう。生活道具はそんな風にして途切れながら、またつながるようなかたちでバトンリレーされ、技術まで伝わってきたのだと思うのです。
昔、この松本で活躍する木工デザイナーの三谷さんの文章を読んだときに、僕は実はちょっと違和感を感じました。違和感を感じたのは、「ものに力さえあれば、どこかでまた誰かがそれを作りはじめ、また、暮らしのなかで使われるようになる」という部分です。まさにここがデジタルなコピーと同様なものに感じられて、工芸というイメージとのギャップを憶えたのです。
ただ、僕がいま、この話を持ち出したのは、まさに僕が前に感じた違和感こそが、先ほどあらためて認識することが大事と書いたITの恩恵を、当時の僕自身が理解できてなかったと思うからです。
三谷さんのいう「ものに力さえあれば、どこかでまた誰かがそれを作りはじめ、また、暮らしのなかで使われるようになる」ということに、僕はデジタルな印象を受けて、そこに違和感を感じたのですが、僕はいまはっきりとデジタルな印象をうけたこと自体は正しく、そこに違和感を感じたことが間違いだったと考えています。
つまり、いったん時代とともに失われた魅力的なものが再生するのは、まさにデジタルの恩恵にほかならないと僕はいま考えているのです。違和感を感じた当時は、実際に物理的にものをつくる手仕事的な作業と、過去に失われたものを再生しようとする頭の働きをごっちゃにしてしまったのですが、そこは分けて感じるとないといけません。
僕らがこれからすべき2つのこと
まさに冒頭に書いた僕の好きなクラシックなつくりのものはデジタルな技術によってものとしてつくられているわけではないのですが、僕がそれに対して魅力を感じて、かつ、それを実際に購入して利用できるためには、現在の膨大なアーカイブを保存でき利用でき共有できる情報技術なしでは実現されないはずなのです。それは単に技術そのものの問題であるだけでなく、その技術の利用に慣れた僕らの頭と社会におけるリテラシーの形成の問題でもあるのです。
というわけで、僕らはいま非常に複雑な時代に生きているのです。一方で今回書いたようなきわめて記録的で、書き言葉的な社会における最新の動向があり、他方、「話しことば社会への回帰だろうか?」で書いたようなこともあるからです。
いずれにせよ、こうした状況下において僕らが行うべきことは、2つです。
まず1つはこうした僕ら自身が置かれた時代の傾向をさらに深く理解すること。
それと同時にもう1つ、現在が消えてなくなってしまう危機にあるくらい、過去と未来の両方に板挟みになっている状況から抜け出すために、これまで手をつけてこなかった未来予測についての学問に真剣に取り組むべきなのだろうと思っています。
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