2006年07月26日

科学と哲学

ダニエル・C. デネットという人はこういうことをさらりと言ってのけてしまうから、僕は好きだ。

哲学から自由な科学など、どこにも存在しない。
ダニエル・C. デネット『ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化』

もちろん、この反対も成り立つはず。
科学から自由な哲学など、どこにも存在しない、と。

科学と哲学はおなじような問題を違う言葉を用いて論じているものだと僕は思っています。
前者は数学によって、後者は言語によって。
だから、科学者が数式を用いずに書くポピュラーサイエンス書は哲学書のように読めるし、だから、僕はポピュラーサイエンス書なんだろうと自分では前から気づいていたりします。
例えば、リチャード・ドーキンス『偶然とは何か』のイーヴァル・エクランドの本なんかは本当にそんな気がします。

ダーウィン革命は、科学革命でもあれば哲学革命でもあるような革命であり、どちらの革命も他方が欠ければ起こりえなかっただろう。
ダニエル・C. デネット『ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化』

同じような意味で、マーケティングを思想の側から語ったドラッカーと、マーケティング・サイエンスという言葉を使ったコトラーの関係も規模は違えど、これに近いものがあると思っています。

そして、僕が科学の中でもとりわけ進化論にひかれる理由はそれがデザインに関するものだからというのと、もう1つ、それが以下のように語れるほど、その思想の影響力がとても大きいと思えるからです。

自然淘汰による進化という考えは、直ちに、生命、意味、目的といった領域と、空間と時間、原因と結果、メカニズムと物理法則といった領域を、一撃のもとに1つにしてしまう。しかし、進化の理論はただの壮麗な化学的観念などではない。それは危険な思想なのだ。
ダニエル・C. デネット『ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化』


進化論を介すと、意識と宇宙、生命、デザイン、意味などといったものがもつ通常の観念がただちにその境目を失い、あいまいに溶け合っていくように感じます。
ヒトは生物で、そこには進化を経て生み出された脳がつまっており、ただ、しかし、その意識と思考の器官は、しょせんはバクテリアなどの単細胞生物がもつおなじアルゴリズムによってデザイン変更を行われてきたという事実。
そして、そのバクテリアさえもただの物質に他ならないタンパク質がうまいこといって生命となっただけに過ぎず、それは宇宙のほかの物質と同様に物理の法則に支配されていたり、そのクセ、そうした事実を突き止めるのもただの人間の脳のパターン認識だったりするのは、考えれば考えるほど、非日常的な印象を受けずにはいられません。

数学が嫌いなわけでも苦手なわけでもないにも関わらず、数式にはどうしても面倒さを感じてしまう僕は、自分が言葉を操ることでどうにか思考をつなげようとしている意味では、どちらかといえば哲学者タイプなんだろうと自己認識しています。

このブログでは、きわめて雑多な分野を扱っている気がしますが、それでも結局は中心にあるのはヒトの行動や認識なんだろうとは思います。
僕がマーケティングなんてやっているのも結局はその延長線上にあるのかな、と。

なんてことを考えてみたのも、ダニエル・C. デネットの『ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化』が今めちゃめちゃ面白かったりするからなのです。

posted by HIROKI tanahashi at 02:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 進化論、生物学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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