記録と記憶:2つの異なる消滅のタイミング

確かにある視点から見ればどちらも同じです。

頭の悪い私には「記録」も「記憶」も似たようなものに思える。gitanez氏が書かれているこの記事では異なると言われているし、それが正しい事なのかもしれないが、記録も記憶も何時かは消えてしまうという点で私には同じに思えるのだな。

記録も記憶もどっちも消えてしまうというのは、まさにそのとおり。

そうなんだけど、私が「記録と記憶:あるいはブログを書き続けるということ」のエントリーで両者を区別したのは、単にそれが「消える」タイミングを重視したからでしかありません。
記録はそれがのったメディアが崩壊した際に、記憶はそれがのった人が死んだ際に、それぞれ失われます。
死んだら終わりか、死んでも残るのかってところがポイント。
もちろん、それぞれメディアが壊れたり、人が死んだりしなくても、それ以前に記録あるいは記憶が失われる可能性はいくつかあります(例えば、痴呆症になるとか)。

そんなこともあって無文字文化における老人の記憶による知の継承を、現在のメディアによる記録による知の蓄積と比較したわけです。

あともう1つ違いを追加すれば、両者の影響範囲でしょうか?
記憶はそれをメディアによる記録を使わない限り、面と向かって話せる相手にしか伝わりませんが、記録はその内容を真に理解できるかをおいとくとすれば、メディアが届く範囲内では伝えることが可能です。
インターネットなんてものがあると結構その範囲は広い。だから、ブログの話とも結びつけたわけです。

で、そんなこともあって、単に個人に記憶されるとかいう話とは別に、人類の種としての持続可能性みたいな大きなフレームで見た場合、記録って話はちょっと考えておいたほうがいいかなというのがあのエントリーの背景にあったものです。
とはいえ、あそこで書いたとおり、記録は誰かの記憶に残り、そこでコピーが再生産されないとその力を存分に発揮できなかったりするわけで、記録と記憶という関係は、大きなフレームの中で見た場合にもきちんと捉えておく必要があるのかな、と。
個々人が「もう二度とその人に巡り合えないとしても、私は絶対に忘れない」とかって熱い想いをもたないようじゃ、種の存続もくそもありませんので、そっちの視点も忘れないように。

以上。補足のエントリーでした。

 


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