2011年07月08日

無文字社会に生きる人びとに目を向けると、文字通り、リテラシー=読み書き能力が人間の思考や社会生活を変えるのだということに気づかされる

今日、昼食を食べながら、ふと思いました。
話し言葉社会に生きるロシア人スパイは、果たしてクックパッドを使うことができるのだろうか?と。



昨夜「話しことば社会への回帰だろうか?」という記事で話し言葉社会に生きるロジア人スパイは頭の中で考えることと身体を通じて外部化する行動が分離していないがゆえに、裁判で「現実に行なったスパイ行為のためというよりは、頭のなかでたんに意図したという廉で自分の罪状を全面的に認めた」という話を紹介しました。
昼食を食べながら気付いたのは、ロシア人スパイが思考と行動が分離していないのならクックパッドは使えないはずだということです。だって、食事をすることを考えることは彼らにとって実際に食事をするのと変わりません。であれば、きっと情報を検索しているだけでお腹いっぱいになってしまうはずです。

逆にいえば、僕らのように情報検索や収集活動が可能なのは、印刷文化以降の社会に生きる僕たちがすでに思考と行動が完全に分離しており、行動することを別として想像することが可能だからだということです。

文字通りにリテラシー=読み書き能力が人間の思考や社会生活を変えることがある

では、本当にロシア人スパイがクックパッドを見てお腹いっぱいになるかというと、おそらく、そうはならないはずです。
むしろ、彼らは目の前に映し出される料理の図像を自分と関係づけて感じられないのではないかと想像できます。つまり、どんな美味しそうな料理も自分に関係者づけて美味しそうと感じることができないのではないかと。彼ら自身は、その写真の料理を食べられないのですから、自分が食べられない料理を思考と行動が分離していない彼らが美味しそうに感じることはないだろうと思うのです。

そんな風に思うのは、マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』で紹介している、無文字社会に生きる人びとが、映像に現れていた人物が画面のフレームの外に消えることが理解できず、「あの人はどうなったのだ?」と訝しがる話を思い出すからです。
アフリカの観客はひとりの男が演技を終えて場面の端から姿を消すと、あの男はいったいどうなったのかと尋ねると言います。その男が演技を終えたために映画のストーリーはもはや彼を必要としないということがわからないからです。観客を納得させるためには、男が角を曲がったから見えなくなったという演出を加える必要があるそうです。

すべての文字社会における鑑賞者の基本的な一面は、本であれ映画であれ、そのまえでただただ受動的な消費者としての役割に徹する、という点である。しかしながらアフリカの聴視者は、物語が語られるとき仲間から離れてただ黙って耳を傾けるという訓練をまったく欠いている。

つまり、無文字社会の人びとは事象に参加せずに黙って聴いたり見たりということができないのです。彼らは常に起こっている事柄のなかで役割をもった参加者であり、思っていることは常に起きている事柄というわけです。

それは文字社会の僕らとはまるで違います。僕らが本を読んだり映画を見たりできるのは、自分が本や映画のなかにはいないことがわかっているからです。自分が本や映画のストーリーに参加しているなんて思ったら、悠長に読者や鑑賞者気分ではいられなくなるはずです。

リテラシー=読み書き能力は、まさに人間に事柄の参加者であることをやめ、客観的な消費者の立場で物事に接することを求めるのです。

「共に」ある人びと

それはまた僕らが物事を考える際でも同じです。
僕らはその場に参加していないからこそ、考えることができる。考える対象が自分に関係する事柄でも、事態が起こっている真っ最中よりも、一旦ひいて客観的に考えることができる場合のほうが考えごとがしやすいではないでしょうか。

つまり、僕らが考えごとをする場合は、行動の現場から離れているほうがよく、それは読書をしたり映画鑑賞するのと同じような参加的な役割を欠いた消費的な態度だといえます。
他人事のような客観的に引いた視点をもつことで、起こっている事柄を冷静に全体的に見ることが可能になり、必要あれば考えたのちに参加して考えたことを実行することができます。

文字使用は人間にイメージのやや前方に焦点を合わせる力を与え、それによってイメージもしくは絵の全体像を瞬間的に概観することが可能となる。

一方で無文字社会の人びとはそのような客観的な、部外者的な立ち位置に立つことができません。

非文字型の社会のなかに生きるひとびとはこのような後天的に獲得された習性をもたないし、そのためにわれわれが見るようには事物は見ない。むしろ彼等は対象物やイメージをわれわれが印刷された頁上に文字を追うように、断片から断片を追って走査する。かくて彼らは対象を離れたところから客観視する視座をもたない。彼等はまったく対象と「共に」あり、対象のなかに感情移入によってのめり込む。

彼らは常に対象と共にある。外から客観的にみたのではわからないものを参加者同士で共有しているのです。それがときに呪術的に感じられたりもするのでしょう。熊狩の猟師は熊を狩るときに熊と一体化しているのだと言います。

かけがえのない経験を共にする時代

この無文字社会に生きる人びとの「共に」という感覚、客観的にみるのではなく場に参加しているという感覚が、現在のソーシャルなつながりと類似しているなと思うのが、昨日、「話しことば社会への回帰だろうか?」を書いた理由です。

それはこれまでのあらゆる経験を均質で交換可能、組み合わせ自在なものにして利便性の向上を狙った方法論とは大きく異る方向にシフトしています。

「われわれは方法それ自体に集中して注目すればよい」と主張するホワイトヘッドはまさに正しいことを主張していたのである。現代世界の諸特徴をつくりだしたものは経験を均質的な断片に分けるグーテンベルク的方法であった。

均質な経験を一歩引いて消費する時代が終わろうとしているのでしょうか?
いや、それが終わるかどうかは別にしても、一方でかつての参加者として経験を他の人びとと共有する形の文化が回復してきているように感じます。

その参加の場では、食べ物はクックパッドを検索するようには客観的に全体的に見渡すことはできません。ただ目の前に出された料理を食べるか、それがイヤなら最初から料理をするところに参加するかです。

そこには読み書きの対象となる客観的な情報はないのかもしれません。でも、そんなことよりよっぽど楽しい経験を直接味わえるのではないでしょうか? 何より情報だけを味わって涎をたらすより、直接料理を味わえることのほうがよい気がします。

それは旅行ガイドをみて旅行に行った気になったり、まとめサイトを見て何かを理解できた気になったりすることとは、まるで異なる体験でしょう。
僕らはリテラシーを得ることで失った、話しことば社会の聴き触れる能力をふたたび復活させることが求められるているのではないでしょうか? おしゃべり社会化するソーシャル時代におけるサバイバル能力として。

 

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posted by HIROKI tanahashi at 21:51| 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする