2011年07月04日

人間や社会にどんな知的ソフトウェアがインストールされているかを知り、それが変更されると何が変わるかを想像できるようにすることの必要性

はい。今までで一番長い記事タイトルじゃないでしょうか?



最近、読み始めたウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールという2人の博覧強記の愛書家の対談『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』の序文はこんな文章ではじまっています。

「これがあれを滅ぼすだろう。書物が建物を」
ヴィクトル・ユゴーのこの名言は、『ノートルダム・ド・パリ』に出てくるパリのノートルダム大聖堂の司教補佐クロード・フロロの言葉です。おそらく建築物は死にませんが、変貌するある文化の象徴という役割を失うでしょう。「それに比べて、思想が書物になるのには、わずかの紙とわずかのインクとペンが一本あれば充分だということを思えば、人間の知性が建築を捨てて印刷術を選んだからといって、どうして驚くことがあるだろう」。
ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』

西洋の知の歴史に疎い人は、この文章を読んで頭にクエスチョンマークが浮かぶかもしれません。
なぜ、書物が建築を滅ぼすのか?と。
しかし、このブログでは以前からことあるごとに紹介してきたように、西洋の歴史において建築は、書籍同様に知や記憶のための情報メディアでした。

マクルーハンがいうように、メディアは人間を拡張させるのであって、それは人間や社会のある部分を「強化」し、ある部分を「衰退」させ、またあるものを「回復」させると同時に、ある状態を「反転」させます。そうした人間や社会を変化させるメディアの変転というものを考えるための準備として、ひとつのメディアの移り変わりを知っておくことは、ウェブやインターフェイスなどのデザインに関わる人には必要不可欠なことだと思っています。

というわけで、今回はすこし印刷本以前の情報メディアである、建築や写本の時代の人びとについて、現代の印刷本を経て日々ネットの情報にアクセスしている現代の僕らと比較する形でみていくことにします。

情報メディアとしての建築物

例えば、以前に紹介した『記憶術』のなかで、著者のフランセス・A・イエイツは、古代から中世にかけての西洋の歴史において建築が記憶の場として利用された様を詳しく描いています。

敬虔なる中世がとくに記憶しておきたいと望んだ事柄とはどのようなものだったのだろうか? いうまでもなく、それは救済や天罰に関わる事柄であり、信仰個条であり、徳により天国に至る道であり、悪徳により地獄に落ちる道であっただろう。これらは、中世がその教会や司教座聖堂のあちこちに彫刻し、窓やフレスコ画に描いた事柄であった。
フランセス・A・イエイツ『記憶術』

イエイツは「スコラ哲学の時代は、知識増大の時代であった」とも言っています。マクルーハンも同様のことを述べていて「中世後期からルネッサンスにかけて情報量が山積みしていったわけだが、こうした情報データの処理、組織化の必要が視覚的枠組みへの強い要請、圧力をつくりだしたのである」としています。
ここで増大した事柄、情報こそが、「救済や天罰に関わる事柄であり、信仰個条であり、徳により天国に至る道であり、悪徳により地獄に落ちる道」でした。そうした知識を一般の人びとにも伝えるための記憶の装置が必要でした。ゆえに中世はまた<記憶>の時代であり、「あらたな知識を記憶するためにあらたなイメージが必要とされた」のです。

そのイメージを載せるメディアがゴシック聖堂に他なりません。
まさに建物そのものと一体化した形でさまざまな彫刻やステンドグラスで埋め尽くされたゴシック建築は、現在の都市空間がさまざまな紙や電飾やモニターなどを通じて映し出される広告に埋め尽くされた情報メディアであるのと同じ意味で、宗教の伝道には不可欠な情報メディアだったのです。

情報メディアの変遷を広い視野でみる必要性

中世の宗教建築は持ち運べないメディアであり、人がそのなかに入って参加することで経験されるメディアでした。持ち運び不可能で、かつ私有ができないメディアであったからこそ、カトリック教会による宗教的知識の独占が可能であったのだといえるでしょう。
冒頭の『ノートルダム・ド・パリ』の登場人物フロロの嘆きである「これがあれを滅ぼすだろう。書物が建物を」は、まさに持ち運ぶことができず私有することのできない建築という情報メディアが、持ち運び可能で私有することもできる印刷本にとって代わられようとする時代の到来に怯えた、当時の知の所有者のひとつの集団を成していたカトリック修道士の嘆きだったのではないかと思われます。

紙の書物がもうすぐ絶滅するとは思いません。
ただし、印刷本以降も滅ぼされることなくしっかりと生き残った建築が、ただ、それ以前とは人間にとっての意味、社会にとっての位置づけや価値を大きく変えたということを、僕らはしっかり見るべきだと思います。印刷本と自分自身の関係だけで変化を考えたのでは、あまりに視野狭窄すぎます。

変化を広く捉えて、いろんな可能性に目を向けるには、そもそも印刷本が建築に取って代わることで何が変わったのかということも把握しておく必要があるはずです。そういう広い視野をもった上で、僕らはデジタルメディアの時代以降に、書物というものと人間の関係がどう変わるか、はたまた新たなデジタルメディアとの関係を結ぶなかで、人間自身あるいは社会がどう変わっていくかをちゃんと考えることが求められているのではないでしょうか。

ポータブルでもなければ私有もできない本

というわけで中世における情報メディアとしてゴシック建築とともにあった本、写本についても見てみましょう。

写本というと、どうしてもそれが本であるという限りにおいて、僕らはどうしても普段慣れ親しんでいる印刷本と同じようなものを想像してしまいます。でも、写本は僕らが知っている本とはまるで違うんです。きちんとしたその時代に関する知識をもった上でほんのすこし想像力を使うと、中世の写本は、僕らが知っている印刷本とはまったく異なるものだったことがわかってきます。

まず、写本は、ゴシック建築が持ち運び不可能で、個人所有ができなかったのと同じ意味で、ポータビリティも私有可能性もほとんどないメディアであったという点が、いわゆる僕らが知る本とは大きく違います。

これも以前に紹介した本ですが、ヘンリー・ペトロスキーの『本棚の歴史』では、印刷革命以前の本は高価で、鍵のかけられた本箱のなかで保管されたり、その後、デザイン上の工夫を経て書見台に本を鎖でつないでおく形になったりと、とても「ポータブル」とはいえないメディアであったことが紹介されています。

本が鎖でつながれていたという事実が、イギリスの歴史的な図書館の構造と発展を17世紀末まで左右し続けたのだ。
ヘンリー・ペトロスキー『本棚の歴史』

鍵がかかる箱の中に保管されたり、書見台に鎖でつがれていたりした当時の本は持ち運ぶことなどは前提としていない本でしたし、そもそも手書きの文字で一文字一文字書き写されたものでしたから、印刷された本より文字自体も大きく、したがって本そのものの大きさも必然的に大きいものでした。

著者も読者もいなかった

そうした物理的な形態の違いや希少性もさることながら、中世の写本が現在の本と大きく異なったのは、何より著者とか読者という存在がほとんど意識されなかったという点でしょう。

不思議なことだが、著者であるとか、偽作の問題にひとびとが関心を持ちはじめるのは、消費者中心の文化なのである。写本文化は製作者中心の文化、つまりほとんど完全な手作り文化であるといってよかった。そして、扱っている事実がどこから由来したかということよりも、それ自体として目的にかなっているかどうか、役立つかどうかが問題にされた。

中世においては印刷時代以降に理解されるような意味での作者個人というのは知られていなかったとマクルーハンは言います。
考えてみれば、ごくごく当たり前なのですが、印刷が発明される以前には、完成品と未完成品の区別がなかったといいます。印刷するというタイミングがないし、そのタイミングで決まる版というのがないのですから、いつまででも書き連ねようと思えばできるのですから。それはブログやTwitterに完成がないのと似ています。
その上、紙そのものが貴重な時代でもあったので、誰かが書いたものの上に上書きしたり、つづけて書いたりということもありました。マクルーハンは「印刷以前の執筆活動はオリジナルな行為というよりも、モザイクの作製であった」といいます。

中世の大学の教養学部の諸コースでは、朗読法と呼ばれる厳格で徹底した書き取り形式で学生たちはノート兼写本を行っていました。つまり、写本は学ぶ立場の人が声に出されたことばを書き写したのであって、僕らが想像しがちなように書かれた文字を見ながら写したわけではないのです。

そんなわけで、著者がいなかったのと同時に読者もいなかったのです。多くの本はいまのようにひとりの人間が著者に向き合うように静かに読まれるものではありませんでした。それは講義や宗教的集まりの場で声を出して読む=詠まれたのです。孤独な読者が個室で行うことが可能になったのは印刷革命以降のことです。

ピューリタンの基本的な思想は「儀式と教会の空間はナンセンスだ。あんなものは、共同体の幻想にすぎない」というものだ。では一体何があるのか。印刷術のおかげで、聖書を一人一人が自分の個室で読めるようになった。

ゴシック建築で写本に書かれた言葉を詠唱されるような儀式やステンドグラスやフレスコ画に描かれた偶像を否定したピューリタンは、まさに持ち運び可能で私有もできる印刷本があったからこそ可能だったのです。

こうした経緯を踏まえると、以下のような言葉を読む際も、僕らは単に印刷本とハイパーテキストの世界を比較すれば事足りるわけではないのがわかります。

ハイパーテキストという仕組みは、著者と読者のあいだに特有の水入らずの感じを必然的に損なうでしょう。何かを「囲い込み」ものという本のイメージは失われ、それによってある種の読み方は間違いなく姿を消すでしょう。
ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』

なぜなら「著者と読者のあいだに特有の水入らずの感じ」そのものが印刷本による人間社会の拡張の結果なのですから。
読み方が変わる。それはもちろんでしょう。しかし、実際はそれ以上のものではないでしょうか? かつてゴシック建築が参加するメディアであり、写本が声を写し声を再生するメディアであったように、情報メディアは本のように読まれるものとは限りません。それはTwitterやFacebookが読むというより参加するメディアであるのと同じように。

内側から光を照らし出させる

中世では、テキストの注解は「光沢=グロス」と呼ばれたそうです。テキストの内側から光を照らし出させるという意味だといいます。
光を当てるのではなく、光を内側から透過させる。まさに照明で建物を照らすのではなく、ステンドグラスにより建物そのものの内側から光を照らし出させるようなゴシック建築の技術に通じます。

中世の人びとは、聖なる光はこちらから見るのではなく、あちらから浴びるのだと信じていました。こちらからとにかく闇に光を当てようとした啓蒙の時代とはまるで逆です。

ジークフリート・ギーディオンが『機械化の文化史』のなかで指摘しているように、中世の部屋にはほとんど家具というものが置かれていなかったのである。グーテンベルク以後、視覚があらたに強調されたために、すべてのもののうえに光を要求することとなった。また新しく生まれた時間と空間の観念は、時間と空間を事物や活動によって満たされるべき容器と見なしはじめたのである。だが、視覚が触覚と密接な関係にあった写本時代には、空間は視覚的容器ではなかった。

みずから光輝いた中世的空間で人はそのやわらかな光にやわらかく包まれていたのでしょう。そのとき、光は単に視覚的なものではなく触覚的なものでもありました。

しかし、啓蒙の時代は、蒙(くら)きを啓(ひら)くため、とにかく何でも光の下にさらけ出そうとしました。そのとき、光とともに浴びていた声による言葉も、光を当てなくては見えない印刷された文字に取って変わられたのです。

そして、版面が文字で埋め尽くされた大量生産品としての本が市場に浸透するのを追うように、新たに生まれた個室に家具が、そして、後にはさまざまな大量生産品が視覚的になった空間を埋め尽くしたのです。
その部屋はもはやゴシック建築のもつ内側から輝くような情報メディア性を失って、光とともにさまざまなイメージを投射する映画のスクリーンのような空間に変容したのです。

いまのデジタルメディアへの移行を考える際もこうした視点で、メディアの変化がもたらす人間や社会への影響を考える必要があると思っています。
持たない生活とかってそういうことでしょって感じます。

   

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posted by HIROKI tanahashi at 23:59| 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする